なぜ,上智大学と早稲田大学のジャーナリスト教育構想は頓挫したのか | 「学而事人」

なぜ,上智大学と早稲田大学のジャーナリスト教育構想は頓挫したのか

 まったく本題と関係ないのだが,少し宣伝。僕は岐阜県の田舎に戻ってきています。僕の住む町は,明治から大正にかけては,明治天皇,新渡戸稲造,島崎藤村,北原白秋等々がこぞって訪れた風光明媚なところです。最近,ようやくそのよさが分かってきました。今度,写真アップします。


 さて,以下,本題です。

 以前,「社会人学生とジャーナリズム教育」と題した記事のなかで,米国では社会人に対する大学院での再教育が普及しており,ジャーナリストに関しても「地方紙や他業種→ジャーナリズム大学院→主要紙や地方紙」というキャリアパスが存在していることを指摘した。一方,日本にはこれに準ずるものはないが,近年、上智大学が「ジャーナリズム研究所の創設」を提唱し,早稲田大学が「スクール・オブ・ジャーナリズム」創設を真剣に模索するなど,社会人に対するジャーナリスト教育が盛り上がりを見せていたことを指摘した。(過去記事

 しかし,これら2001-02年にかけての両大学の動きは,現在,頓挫してしまっている。今回は,なぜ,両大学の卓越した計画が頓挫してしまったのかについて、経緯を振り返ってみたい。志の高い教育者がいて,それをどうつなげていくかが大切なように思われる。

(上智大学の場合―藤田博司の挑戦―)

 過去5年,上智大学ではメディア企業とのインターンシップや提携講座などがスタートしている。その音頭をとったのは,藤田博司教授(=当時。現在,早稲田大学客員教授等)である。藤田は,日本のジャーナリスト教育を議論できる数少ない研究者の一人であり,関連する主要論文として「ジャーナリスト教育の構築に向けて」(20043月)がある(論文へ .pdf )。

藤田は,1999-00年にかけて新聞学科長を務めている。当時,上智大学では2013年の創立100周年に向けて,研究・教育・キャンパスを抜本的に再興するグランド・レイアウトが検討されていた。20011月にその中間報告がなされた際に,藤田が中心となり新聞学科は大学トップに対して社会人教育を視野に入れたジャーナリズム研究所の設置を提言したのである。(関連記事(上智通信)へ

 しかし,この計画は2つの理由から頓挫してしまった。ひとつは,新しい研究所の設置に大学トップが消極的であったことである。当時,上智大学はかなり数の研究所をかかえており,その一部は形骸化していた。大学トップとしては,古い研究所を処理することが先決であり,新しい研究所の設置は予算等の関係から難色を示したのである。

 第二の理由は,新聞学科自体が,全体としては設置に熱心ではなかったためだ。新聞学科は創立以来,ほぼ定員数が変化していない(学部生240名)。専任教員もわずか8名であり,ジャーナリズム研究所の設置となれば,学科の団結が不可欠である。しかし,藤田以外にジャーナリスト教育に関して論文を発表している教員が皆無である。すなわち,新聞学科全体としては新しいジャーナリスト教育に消極的であったことが,頓挫の一要因だったのだ。

 その後,ジャーナリズム研究所構想は,再び好機を迎える。大学の構造計画を進める文部科学省が,2002年に21世紀COEプログラムを開始したのである。COEプログラムは,選出された大学に世界のトップレベルの研究拠点を形成するための予算を重点配分するものである。(関連記事(COE)へ

 石川旺新聞学科長(=当時)は,藤田らと協力しながらCOEプログラムへ応募する。しかし,不採用であった。文部科学省は,上智大学のジャーナリズム研究所が世界トップレベルの研究機関となると判断しなかったからである。

 その後,0503月に藤田の定年退職を持って,新聞学科のジャーナリズムセンター構想は下火になった。藤田は,その最終講義のなかで,日本の大学教育の荒廃や学生の可能性を引き出す教育の必要性も語っている。(最終講義の全文へ.pdf

 藤田の志が現在の新聞学科のなかに,いまどのように生きているのかは定かではないように筆者は思う。

(早稲田大学の場合―林利隆の挑戦―)

早稲田大学ほどマスコミ業界に人材を供給してきた大学はほかにないだろう。手元に最新のデータがないため,1990年のものになるが,早稲田は172名の卒業生が主要5紙と通信社2社に就職している。これは61名の慶応大学や28名の東京大学と比べても突出している。(Takeichi 197-8

 その早稲田大学で熱心にジャーナリズム大学院の創立を目指したのが,日本新聞協会研究所所長を勤めた林利隆教育学部教授である。林は,早稲田大学で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞の創設(2001年)やマスコミ各社による寄附講座の導入,公共経営研究科にジャーナリスト養成コースの設置(2003年)に関わっている。

また,林は,2002年夏に中央教育審議会が高度専門職業人養成大学院(法科大学院や公共政策大学院など)の設置の方針を示したことを好機と捉え,早稲田大学に独立専門大学院「スクール・オブ・ジャーナリズム」創設の可能性を検討する組織,ジャーナリズム研究所を同年12月に設置している。この組織は,国内で本格的にジャーナリズム大学院の創設を検討した初の機関だと考えられる。(関連記事;

林は大学院の理念を2003年の論文で次のように述べている。

(引用開始)このスクールの理念,目的はなにか,ことをあらためていうまでもなく,21世紀社会に貢献する,強い意志と責任感,きびしい倫理観をもった国際性豊かなジャーナリスト,換言すれば,専門職としての識見をそなえたジャーナリストの育成・教育である(引用終了)(林 42-3

 林がこれほどまでの熱意を持ち,研究所はすでに「教育カリキュラム」の検討にまで入っていたにもかかわらず,この早稲田大学の動きはなぜ頓挫してしまったのだろうか。

 それは,この議論を推し進めてきた林が,2005年に急逝したためである。

 早稲田大学でのジャーナリズム大学院構想もこれで,ストップかと思われたのだが,ひとつ重要な動きがあった。それは,花田達郎東京大学大学院情報学環長が林に代わり早稲田大学教育総合科学学術院(旧・教育学部)教授に転任したのである。東大情報学環は旧新聞学研究所の流れをくむ大学院組織で,花田は東大でのジャーナリスト教育を強力に推し進めた人物である。2003年に論文集「論争 いま,ジャーナリスト教育」を編集するなど,日本のジャーナリスト教育の第一人者である。

 花田は東大の定年を1年残して早稲田に移っている。どのような早稲田大学からの要請や花田の動機があったのかは定かではないが,早稲田の定年が65歳であることから花田は今後6年間,専任教員を続けることになる。ジャーナリズム大学院の議論が早稲田で再燃する可能性が高い。(詳しくは今後,リサーチする予定)

(今後は,,,? 問題意識の共有がひとつ)


 別の観点から最後にひとつ指摘しておきたい。ここまでで藤田博司,林利隆,花田達郎という三人の名前がでてきた。それぞれ上智,早稲田,東大という歴史的にジャーナリズム教育に関連の強い大学で,近年,熱心にその議論を進めてきた教育者がいたことは刮目すべきことだ。ゆえに,藤田の定年退職と林の急逝は日本のジャーナリスト教育にとって惜しいことである。この三者を除くとジャーナリズム教育を真剣に議論してきた教育者はほとんど見当たらない。

この教育者の不在が,根本的な問題のように思われる。同じ問題意識を持つ者のつながりこそが必要なのだ。また,そのつながりは,世代(25年)を超えていかなければならないだろう。

 米国で職業大学院が導入され始めた頃,わずかな教育者たちがジャーナリズム教育を英文科(米国の視点からだと国語科)などで細々とスタートした。それは,ミズーリ大学がジャーナリズム学部を創設する50年ほど前の話である。

ようやく職業大学院制度がスタートした日本でも,米国と同じく職業大学院としてジャーナリズム学部の創設には50年ほど時間が必要なのかもしれない。(もちろん,メディアの発達や普及を考慮すればそう単純ではないのだが)

さて,藤田,林,花田に続く教育家が日本にはいるだろうか。

 いる。若い研究者のなかに三者の影響を受けて同様の問題意識を持つ者が出てきたのだ。2002年の博士論文を下に,「ジャーナリズムの起源」を今年出版した別府美奈子日本大学新聞学科助教授もその一人である。「ジャーナリズムの起源」は,米国のジャーナリズムのプロフェッションがいかに理念的に確立され,制度的に保証されてきたかをジャーナリスト教育にも焦点をあてながら分析した資料価値もきわめて高い優れた論文である。

 別府は,「ジャーナリズムの起源」の序章でもっとも方法論的な視座から影響を受けた先行研究として花田達郎「メディアと公共圏のポリティクス」を挙げ,次のように述べている。

(引用開始)花田は同書のなかで,ここ数年来,日本のメディア界でもよくみられるようになった倫理の議論に対し,メディア制度の面から倫理の実態のなさに対する非を指摘し,改善の方法を考察している。花田はそこで,いくら綱領を変えてもそれを支える制度がなければ意味がないこと,すなわち,理念にはそれを支える制度が必要不可欠であることを明確に指摘している(引用終了)(別府 8

 また別府は,そのあとがきで,藤田博司との出会いを「本研究にはなくてはならないものだった」とし,林利隆の死については次のように書いている。

(引用開始)誠に残念なことに,早稲田大学の林利隆先生が急逝された。「日本のスクール・オブ・ジャーナリズムを創りたいんだ」とおっしゃっていた声が,今も耳に残る。お手紙の大きな字は,その思いの広がりのようにもみえる。日本のジャーナリズムの良さも悪さもよくご存知の先生だった。筆者は,ありがたいことに,良質のジャーナリズム活動に尽力している方によく出会う。人の輪を大切につなぎ,林先生にご報告できるような,ジャーナリズム向上のための仕事ができたらと願う(引用終了)(林 307

 なるほど,僕もまた将来どのような形であれ,日本初のスクール・オブ・ジャーナリズムの創立に貢献できる者になりたいと思う。そのひとつの指針を,僕はいま構想しているわけだ。


 ジャーナリストの教育構想の頓挫は,高い問題意識をもった個人がいなくなることによるわけだが,その志は,次の世代へ引き継がれ,実を結ぶことが少なくない。ジャーナリズム学部の創設もその可能性を秘めているように思われる。

参考;

Takeichi Hideo. 1995. Journalism Education, Training and Research

林利隆. 2003. ジャーナリズム・スクールをめぐって―早稲田の動き

別府美奈子. 2006. ジャーナリズムの起源