“Lehman” 「リーマン」 とは、どういう姓か? | げたにれの “日日是言語学”

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   lehman-bros




〓「リーマン・ブラザーズ」 の Lehman は、


   Lehman [ ' li:mən ] [ ' りーマヌ ] 「リーマン」


と発音します。しかし、


   Lehman [ ' leɪmən ] [ ' レイマン ] 「レイマン」


と読ませる場合もあります。逆に、Layman と綴ってしまう場合もあります。Layman は別の名前じゃないか、と思われるかもしれませんが、純粋に英語起源の Layman もありますが、Lehman と語源が同一の Layman もあります。


〓それどころか、Lemon という姓も同源の場合があります。この姓は、英語起源の場合もあれば、ゲール語起源 (スコットランド、アイルランド) の場合もありますが、Lehman と同源の場合もあります。


Lehman という姓は、ドイツ語の姓 Lehmann [ ' le:man ] によく似ています。しかし、語末の -n が1つ足りない。なぜか? それは、


   この姓が、最初からドイツ語ではなく、イディッシュだったから


です。


〓東欧の、とりわけ、三国分割 (18世紀末) されるまでのポーランド王国には、たくさんの “アシュケナージ系” と呼ばれるユダヤ人が居住していました。彼らは、ポーランド人など、地元の住民の都市に隣接するように “シュテトル” שטעטל shtetl (ドイツ語 Stadt + 南部方言の指小辞 -el に相当する。a はウムラウトする) というコミュニティーをつくっていました。


〓このシュテトルは、ユダヤ人自身がつくったコミュニティーであり、いわゆる “ゲットー” のことではありません。


〓18世紀末のポーランド分割により、大多数のユダヤ人居住域はロシア帝国の版図に入りました。ユダヤ人に、ある程度、寛容であったポーランド王国と違い、ロシア帝国は、ユダヤ人を 「賤民」 とみなし、25年の兵役、特別税の課金、指定された地域外への移動の禁止など、苛酷な扱いをしました。

〓ユダヤ人は、アラブ人などと同様、姓というものを持っていませんでしたが、おそらく、この時代に、「管理上、必要となるため」 に、名乗ることを強制されたんでしょう。


〓当時のユダヤ人コミュニティーの言語は


   イディッシュ Yiddish


と呼ばれる、古い時代のドイツ語に、ヘブライ語などの要素が加わった言語であり、ラテン文字ではなく、ヘブライ文字で書かれました。ヘブライ語は母音を表記しませんが、イディッシュは、ヘブライ語からの借用語を除き、母音を表記します。


〓字面はヘブライ語のようですが、実は、ドイツ語にひじょうによく似ています。



   איך ikh [ ' ɪχ ] [ ' イふ ] 「わたし」。イディッシュ
   ich [ ' ɪç ] [ ' イヒ ] 「わたし」。ドイツ語


   שײן sheyn [ ' ʃɛɪn ] [ ' シェイヌ ] 「美しい」。イディッシュ
   schön [ ' ʃø:n ] [ ' シェーヌ ] 「美しい」。ドイツ語


   שפּאַצירן shpatsirn [ シュパ ' ツィルヌ ] 「散歩する」。イディッシュ
   spazieren [ シュパ ' ツィーレヌ ] 「散歩する」。ドイツ語



〓アシュケナージ系ユダヤ人は、姓を創出する際に、周囲のポーランド人、ウクライナ人などの姓をなぞって ~sky 「~スキー」 としたり、あるいは、~ovich 「~オヴィチ」 としたりすることもありましたが、やはり、イディッシュで造語することが多かったようです。


〓イディッシュはドイツ語とよく似ていたので、姓をつくる際に、ドイツ人の姓を雛形 (ひながた) にすることも多かったようですし、あるいは、ドイツ人の姓としてはまったく存在しないような単語の組み合わせをすることも多かったようです。

〓ユダヤ人は農業に従事することを禁じられていたため、その生業は、手工業と商業が半々くらいの割合でした。そのため、自分の商売を姓にすることも多かったようです。


〓当時のドイツ人は、イディッシュを “カタコトの崩れたドイツ語” とみなすのが常でしたが、ユダヤ人社会の中でも、


   自分たちのコトバを正しいドイツ語に修正するべき
   自分たちのコトバはイディッシュであり、これに誇りを持つべき


という考えに分かれていました。

〓“修正派” は、おそらく、自分たちの姓を、よりドイツ語の発音に近づけたでしょうし、“イディッシュ派” は、イディッシュの発音を維持したでしょう。



               霧          霧          霧



〓しかし、閉鎖されていた東欧のアシュケナージ系ユダヤ人の社会に “激動の時代” が訪れます。ロシア革命とともに、彼らは移動が自由になりますが、それと同時に、彼らの居住域は第一次世界大戦の戦場になってしまいます。
〓そして、第一次大戦の終了は、彼らの平和を約束するものではありませんでした。やがて、ドイツでナチスが擡頭し、ドイツの占領下に入ったヨーロッパ地域では、ホロコーストが始まります。東欧のアシュケナージ社会は、完全に根絶やしにされてしまいました。



〓ロシア帝国の末期から、第二次大戦にかけて、多くのアシュケナージ系ユダヤ人が、アメリカなどへ移住しましたが、彼らは、英語すらロクに話せない状況でした。


〓そのような状態で、彼らは、


   イディッシュによる自分の姓をラテン文字に翻字 (ほんじ) しなければならない


ということになりました。そこで、


   לײמן Leymn [ ' lɛɪmn ] [ ' れイムヌ ]


を名乗っていたユダヤ人は、どうやってラテン文字に置き換えるか、選択しなければならなくなります。


Leymn 「レイムン」 というイディッシュ姓は、ドイツ語姓の Lehmann 「レーマン」 を借用したものですが、発音がイディッシュ式に訛っています。


〓まず、たいていは、語尾の -mn Mann のことだと分かっていたようで、これは、ほとんどの場合 -man となります。イディッシュ音が -mn であるし、移住先が英語圏であれば、わざわざドイツ語式に -mann とする必要もない、と考えたのでしょう。


〓問題は、Ley- 「レイ」 です。ドイツ語の長母音の [ e: ] は、イディッシュでは、通常、[ ɛɪ ] 「エイ」 となります。ここで、選択肢が3つに分かれます。



   ドイツ語式に Lehman と綴り、英語式に 「リーマン」 と読む
   ドイツ語式に Lehman と綴り、イディッシュ音で 「レイマン」 と読む
   イディッシュ式に Layman と綴り、「レイマン」 と読む



〓これで、綴りと発音にバリアントがある理由がわかりますね。Lemon という綴りは、「レイモン」 という発音に近い英語姓をみずから宛てたか、あるいは、移民する際に、米国の係官によって、知っている英語姓を宛てられたセイかもしれません。


〓イディッシュをラテン文字に復元する際に、ドイツ語姓とビミョウに異なる単語になってしまう例は多く見られます。そういう姓を見つけたら、背景には、ユダヤ人の激動の歴史があるんだな、と、想像してみてください。



〓ドイツ語姓には、Kästner [ ' kɛstnɐ ] [ ' ケストナァ ]、Köstner [ ' kœstnɐ ] [ ' ケストナァ ] というよく似た姓があります。日本語でも、どちらも 「ケストナー」 になっちゃいますが、イディッシュでも ä, ö が両方とも [ ɛ ] になるため、やはり、区別ができません。
〓アシュケナージ系の קעסטנער kestner 「ケストナー」 は、“箱づくり職人” が名乗った Kästner と思われますが、ラテン文字に復元したときに、誤って Köstner となり、さらにウムラウトを取り去って、Kostner さらには Costner になってしまう、などという例もあります。






  【 Lehman(n) とは、どういう姓か 】


Lehman のように、語末の 「マン」 の綴りが、


   -n 1つの場合、普通は、アシュケナージ系ユダヤ人


である、と判断できます。


〓現在、ドイツ国内で、Lehman という姓を持つ人は、


   299人のみ  ※すべてがユダヤ人かどうかは分からない


です。しかし、


   Lehmann [ ' れーマン ] ならば、とたんに、65,580人


に跳ね上がり、ドイツでも 32位に多い姓となります。



〓この姓をドイツ語辞典で引いても出てきません。現代ドイツ語の標準語彙では、


   Lehnsmann [ ' れーンスマン ] 「封土家臣」 (ほうどかしん)


と言います。“封土家臣” というとムズカシいですが、要は、日本の江戸時代の大名と似たような身分です。領地を拝領する代償として家来となる。



〓中世ヨーロッパにおいては、イスラーム勢力、ヴァイキング、ゴート人、ゲルマン人、中央アジアからの騎馬遊牧民など、さまざまな勢力が侵入し、日本の戦国時代のような乱世となり、そこから 「封建社会」 が成立していったようです。


〓各地域の有力者のもとに、庇護を求める地主が集まる。有力者を主君とたてまつり、忠義をつくすかわりに、自分の領地を安堵 (あんど) してもらう。
〓日本の歴史とそう変わらないですね。制度上は、家臣が主君から土地を 「拝領する」 という形になります。



〓ゲルマン祖語で、「貸す」 という動詞は、


   *lī́xwan- [ ' りーふワン~ ] 「貸す」


でした。これが、


   leihen [ ' らイエヌ ] ドイツ語
   lend   英語  ← 中期英語 lenen [ ' れネ(ヌ) ]
      ※過去形あるいは send などの動詞の影響で -d が付いたとされる


となります。
〓いっぽう、この動詞の名詞形、


   *láix(w)niz-, -naz- [ ' らイふニズ~、' らイふナズ~ ]


が、


   Lehen [ ' れーエヌ ] 「封土」 (貸す土地)。ドイツ語


となりました。英語では名詞形 (古英語 lǣn [ ' らーヌ ]) は消失してしまいましたが、その原因は、おそらく、ブリテン島の海岸部からしきりと侵入を始めたヴァイキングが、同源で、ほぼ同音の類義語である古ノルド語の lán [' らーヌ ] を持ち込んだためでしょう。


〓古ノルド語 (古代スカンジナヴィア語) の lán の母音は、古英語の lǣn の母音よりも “広かった” ため、


   lān → lōn → loan [ ' loʊn ] [ ' ろウヌ ]


と変化しました。そのため、動詞の to lend と 「動詞―名詞」 の対でありながら、語形が似ていないんですね。


〓ところで、ドイツ語の Lehen 「封土」 と Mann 「男、人」 を合成すると、


   Lehens + Mann → Lehensmann → Lehnsmann [ ' レーンスマヌ ]
     ※ Lehens -s は、2格 (属格) の -s


となります。つまり、「レーンスマン」 というのは、「貸した領地の人」 という意味であり、語の構成としては “借地人” というようなテイになっています。英語にそのまま置き換えるなら、


   Loan's Man


となりますね。


〓ドイツ語標準語彙の Lehnsmann というのは、文語としてキチンと保持された語形であり、


   Lehmann 「レーマン」 というのは、口語的に訛った語形


でしょう。姓としては、口語慣れした日常語のほうが残ります。




〓ユダヤ人が、こうしたドイツ人の身分制度にあずかるわけはないので、


   気に入ったドイツ人の姓を借用したもの


と考えていいでしょう。日本語で言えば、ちょうど 「御家人」 (ごけにん) というようなコトバですから、“見バエのする姓” と感じられたのかもしれません。




“Lehman” という姓をイディッシュで綴ると、


   לײמן Leymn [ ' れイムヌ ] 「レイムン」 …… 15,400件


が普通ですが、ネットで検索すると、次のような異形も見つかります。



   לײהמן Leyhmn [ ' れイふムヌ ] 「レイフムン」 …… 16件
   לעהמאַן Lehman [ ' れふマヌ ] 「レフマン」 …… 8件
   לײמאַן Leyman [ ' れイマヌ ] 「レイマン」 …… 4件
   לעמאַן Leman [ ' れマヌ ] 「レマン」 …… 2件
   לײהמאַן Leyhman [ ' れイふマヌ ] 「レイフマン」 …… 0件



〓いずれにしても、イディッシュ姓の綴りは 「表音主義」 なので、語末の -n は1つです。それに対し、ドイツ語は、言うてみれば、


   “歴史的かなづかい” に縛 (しば) られるので -mann


と、語末に、必ず、n を2つ書かなければなりません。そのために、


   Lehmann ドイツ姓
   Lehman  アシュケナージ系ユダヤ姓


となるワケです。




〓これを 「リーマン」 と発音するのは、もちろん、英語の読みグセにならったものです。


〓もちろん、“リーマン・ブラザーズ” についてはイスラエルでも報道されているわけで、英語姓となった Lehman もヘブライ文字で表記されます。


   ליהמן Līman [ ' りーマヌ? ] …… 282,000件
        ※ ה は書かれるだけで読まれないだろう
   להמן Liman [ ' りマヌ? ] …… 58,900件


〓比べてみれば、イディッシュの表記とヘブライ語の表記が異なっていることがわかりますね。


   לײמן Leymn [ ' れイムヌ ] 「レイムン」。イディッシュ
   ליהמן Līman [ ' りーマヌ? ] 「リーマン」。ヘブライ語