GHQ(連合国軍総司令部)は(昭和二十一年)一月に予定されていた選挙を三月に延ばすことを指令します。そして三月九日までの公職追放令による審査で、進歩党に至っては 結党時の二百七十四名中、十四名を残して全部追放されます。

民政局が希望したのは左翼政党です。今でもその立場に同情的な歴史家のダワーは言っています。「戦後の日本にとって真に不幸なことは、強力な社会民主主義勢力が抬頭してこなかったことだ。そのため日本では二大政党制が生まれなかった」

しかし日本の政治には、自由民権、大正デモクラシーの伝統があり、戦後国民の大多数が政治を託そうとしたのは、新奇な左翼的人物でなく、政友会、民政党の流れを汲(く)む気心のしれた人物達でした。
≪民意は鳩山と自由党≫

しかも鳩山は、昂然(こうぜん)と反共を宣言し、保守の結集を呼びかけたので、民政局の逆鱗(げきりん)にふれたのでした。選挙の四日前、ケーディスは 戦時中の鳩山の言説のテキストをゲインに渡し、ゲインはそのコピーを同僚に配って外人記者会見で鳩山を吊(つ)るし上げましたが、それでも民意は鳩山と自 由党を第一党にしました。そこで、鳩山就任の日にGHQは鳩山の公職追放を指令します。
≪二十万余人が追放に≫

追放令は次々に出され、一年半ほどの間に二十万余の日本人が追放されました。

追放は、軍、官、政界だけでなく、出版、産業等の各界に及び、主要会社の常務以上、明治、大正以来日本の社会が営々として育てあげた指導層をことごとく 失いました。吉田茂はこれでは混乱と共産主義を招くと警告し、GHQ内部でもそれを心配する声もありましたが、ワシントンの指示を楯(たて)にとった民政 局のケーディスなどの意見で強行されました。
明治、大正、昭和の初期の平和な時代に深い教養を培(つちか)い、時代の過渡期を責任ある地位にいて経験した世代が失われ、その後の軍国主義時 代に中途半端な役職を務めた経験しかなく、海外経験も乏しい世代、さらには、その後の個性を没却した軍隊教育を受けた世代が戦後長きにわたって日本の支配 層となった弊害を生んでいます。


占領行政機構の中心が、GHQに入り込んでいたコミンテルン(共産主義の国際組織)によって占められた事である。彼らは、日本の歴史と伝統に全く無知であることを自ら公言しつつ、 新しい日本を作るためと称して、過去の日本を悉く悪と断定して、日本の伝統を徹底的に破壊しようとした。その手段である徹底した言論統制と公職追放の不公 正さも占領政策の疵となった。

この政策は、浅薄な左翼インテリの無責任な気紛れであり、また彼らの私生活の放恣さもあって占領軍内部でも批判は強く、三年ほどで放棄された。ところ が、日本を精神的、軍事能力的に弱体化させ、無力化させるというこの政策は、冷戦下における国際共産主義勢力の欲する所とぴったり適合した。

その後は占領軍でなく共産主義勢力の強力なプロパガンダの下に、左傾化した教育、マスコミの労組を通じて、それが日本国民全体の思潮に浸透した。その結 果、その後、日本を建設的なパートナーとして極東政策を遂行しようとする米国の政策は、日本人の多数が支持する保守政権によって受け容れられたにもかかわ らず、常にマスコミ、世論の反対する所となり、米国の対日政策は挫折と失望を繰り返すことになる。

ブログランキング・にほんブログ村へ