大東亜戦争から50年以上の年月が経過し、それまで公開されていなかった歴史資料が公開されはじめている。
それらの資料の例を挙げると、


●『ミトローヒン文書』 (The Mitrokhin Archive、2005年刊。ミトローヒン、クリストファー・アンドリュー共著、本邦未訳) 

旧ソ連のKGB対外情報局文書課長ミトローヒンは冷戦末期にイギリスに亡命、KGB本部の機密文書を大量に持ち出した。それには欧米、アジアへのKGBの工作活動が活写されている。

冷戦期の日本においてもKGBの工作によって、多くの日本の政治家や官僚、マス・メディアが国益に反するような行動に従事していたことが、実名やコードネームで紹介されている。

ことに在モスクワ大使館時代にハニー・トラップ(女性スキャンダルによって弱みを握る手法)に引っかかり、のちに本省に戻って日本の暗号システムも含めクレムリンに大量の極秘情報を流していた日本人外交官「ミーシャ」の例は衝撃的である。

●『マオ』(MAO、ユン・チアン、ジョン・ハリディ共著。

邦訳は『マオ―誰も知らなかった毛沢東』、2005年、講談社) 

毛沢東の伝記。中華人民共和国建国の「英雄」毛沢東神話を綿密な取材と研究によって打ち砕き、残忍な独裁者としての実像を浮かび上がらせた書。

のみならず、我が国にとって切実なのは、『GRU帝国』など機密資料に基づいてこれまでの昭和史の通説を根底から揺るがすような新発見、核心に触れた既述が多いことである。

例えば、張作霖爆殺がスターリンの命令を受けたナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだったことや、中国共産党の秘密党員であった張治中がスターリンの指令によって蒋介石の方針に反して、日中を全面戦争へ引き擦り込むべく第二次上海事変を引き起こしたことなどが記されている。

●『GRU帝国』(Imperiya GRU、アレキサンドル・コルパキディ、ドミトリー・プロコロフ共著、本邦未訳) 

GRUとは旧ソ連赤軍参謀本部情報総局のこと。リヒャルト・ゾルゲもこの機関の諜報工作員であった。そのGRUの未公開文書に基づいて張作霖爆殺など数々の工作活動が明らかにされている(GRU文書そのものについてはプーチン政権時代になってアクセスが難しくなりつつある)。

●『ヴェノナ文書』(VENONA)

アメリカ陸軍省内の特殊情報部が、1943年以降、極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号の解読内容を、1995年から公開、その文書を指す。

解読作業はカーター・クラーク将軍が大統領にも秘密で始めたプロジェクトだったが、そこには、第二次大戦の戦前戦中そして戦後、アメリカ政府の中枢にいかに深くソ連の工作活動が浸透していたかが明かされている。

例えばルーズベルト政権では、常勤スタッフだけで二百数十名、正規職員以外で三百人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいたとされる。

同文書はインターネットで誰でも閲覧できるが、本邦未訳。


といったものが有る。


これらの資料により明らかになって来たものの一つに、昭和3年6月4日に起こった張作霖爆殺が有る。
今までは関東軍の河本大作の工作により起こされたと言われて来たが、そうでは無くスターリンがナウム・エィティンゴンに命令し実行させ日本軍の仕業に見せかけたものだった。


これまで、河本大作が工作したという根拠として揚がっているものは、

・岡田啓介元首相が証言しているが、当の岡田の証言自体が全て伝聞の伝聞によるもの
・外交官の森島守人の証言も伝聞の伝聞によるもの
・当時、北京公使館付武官補佐官の田中隆吉の証言についても伝聞
・当時、中国国民党に派遣され軍事顧問をしていた佐々木到一の証言も伝聞

全て伝聞による証言である。
こういう伝聞による証言は歴史学から見たら史料価値は全く無い。


肝心な河本大作自身の証言と言われているものについてだが、
彼は終戦後、支那の山西省で国民党軍の顧問になり協力していたが、国府が敗れ共産党軍に引き渡され大原戦犯管理所で3年後に亡くなっているが、その間には手記も何も書いて無い。
それでは、昭和29年12月号の「文藝春秋」に掲載された河本告白記は誰が書いたかというと、河本の義弟で作家の平野零児が書いている。
この平野零児という人物は戦前に治安維持法で何度も逮捕されている。


「ソ連が支配する東支鉄道の利権を脅かす張作霖を暗殺し、より操り易い張学良をを使って関東軍との間に対立を起こさせるように」というモスクワの指示により、GRUが日本軍の仕業にに見せかけるシナリオを書き、2つの工作を同時進行して行った。

1つの工作は、関東軍がやったと皆に信じさせる洗脳工作。
張作霖を爆殺する事によって、関東軍に「満州を押さえられるんだ」という考えを吹き込む工作も同時にやっていた可能性も有る。
もう1つの工作は、ソ連工作員による実際の爆破工作で、指揮したのはナウム・エイティンゴンというソ連工作員。そのナウム・エイティンゴンの指令を受けた部下が張作霖と同じ列車に乗っていた。
後にナウム・エイティンゴンは、橋梁や線路の爆破ぐらいでは致命傷は与えられないから、自分たちが爆破に直接関係したと言って、破壊された客車の写真を撮り それを自分の功績、証拠として自分の回顧録に載せて「自分がやった」とハッキリ言っている。


今、スタンフォード大学で「蒋介石日記」というのが順次公開されているが、その中で"張作霖の息子の張学良が張作霖爆殺の1年前の頃に国民党員になった"と書かれているのが平成18年の4月に明らかになった。
当時、張作霖は国民党軍率いる蒋介石と闘っていたが、その張作霖の息子が国民党に入っていた。
蒋介石はモスクワと繋がっていた。
つまり、張学良、蒋介石、コミンテルンという3つの繋がりが間違い無く存在していた。
ならば、張作霖爆殺の背景、動機、要素として全て揃う。
更に、ナウム・エイティンゴンという実行者の告白証言も有る。


これが事実ならば、張作霖爆殺が日本の支那に対する侵略戦争のはじまりだとしている東京裁判の評価見直しにも重要な意味合いを持つ事になる。


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