前回の記事はこちら→ 仁丹町名表示板を探して広島県福山市の鞆へ(4)
これから歩く場所はお寺がたくさん通りに面していて(後からこのように地図で確認しましたが)、さながら京都の「寺町通」のようです。
こちらは阿弥陀寺。
中国風の一風変わった山門がある南禅坊。
少し進んでいくと水汲み場?がある路地へ。
そのほぼ向かいにはレトロな看板がたくさん掲げられた家がありました。
ちょっと見てみますと・・・「神農湯」だったり
「太田胃散」、「引起散」だったり、
こっちには「メンソレータム」であったり
上を見上げると「オロナイン軟膏」の丸いものが。
こちらにも「オロナイン軟膏」、という具合に昭和の香りがする看板のオンパレードです。
そして進んでいくと、ありましたよ、仁丹町名表示板!
仁丹町名表示板「鞆町後地 鞆小学校前 江の浦町」
引いて見ると、小学校は坂の上にあるようですね。
これは法宣寺。
歩いていくと道が突き当たり右にしか曲がれないようになっております。
曲がったら何やら極小の「橋」が。どうやらこれが「ささやき橋」のようです。
ささやき橋と言われるようになった由縁は
「第15代応神天皇の頃、百済より王仁博士が来日。一行を乗せた船が鞆の浦に到着した。朝廷はこの賓客をもてなすため、接待官として武内臣和多利、官妓として江の浦を当地に派遣した。ところが、この二人は仕事で何度も会ううちにすっかり恋仲となってしまったのである。橋のたもとで逢瀬を重ねる二人の仲はやがて上官の知るところとなり、密会を止めるように忠告された。しかしそれを止めることが出来なかった二人は罪を問われ、お互いが抱き合えないように後ろ手に縄で縛られると、そのまま海に沈められてしまったのである。
ところが、和多利と江の浦が密会していた橋のたもとで、夜ごと二人がささやきあう声が聞こえるという噂が立った。そしてその橋はやがて“ささやき橋”と呼ばれるようにあったという。」
そんな場所にも仁丹町名表示板はありました。
ささやき橋のところを振り返ると・・・
仁丹町名表示板「鞆町後地 ささやき橋前 江の浦町」
さらに石畳の道を歩いていくと妙蓮寺が見えてきました。
さらに進むと沼名前神社があり、参道を歩いていると売店があり、そこにまたまた仁丹町名表示板を発見。
仁丹町名表示板「鞆町後地 沼名前神社前 祇園町」
京都と異なり、鞆の仁丹町名表示板は観光案内的な役割を果たしているようですね。
そうそう、いい写真が撮れていなかったので残念なのですが、沼名前神社の鳥居。
ちょっとこれでは分かりにくいですがこの鳥居の上部分が民家に突き刺さっているんですよ。
さらに歩いていくと安国寺が見えてきました。
足利尊氏ともゆかりがあるんですねえ。
上の説明板を見ていると、安国寺の釈迦堂は国の重要文化財指定なんだそうです。
ということで鞆の浦仁丹町名表示板探しはまだまだ続きます。
いつもおおきに!⇒ 人気ブログランキングへ
にほんブログ村