私の仕事(1007)飯舘村の春 | 『二重被爆~語り部 山口彊の遺言』公式ブログ

私の仕事(1007)飯舘村の春

一昨日からの3日間、南相馬市は穏やかなポカポカした気候

でした。朝夕は肌寒さはありますが、とてもいい季節となりました。

昨日13日日曜日は、飯舘村で農業を営んでいた佐藤吉男さんを

訪ねました。福島市松川の仮設住宅に住んでいます。

「猫に餌をやりたいから」と一緒に飯舘村に向かいました。

草や花が生い茂り、助手席の佐藤さんは、

「これじゃ放射能はともかく、除草だけで5年はかかるな」とつぶやき

ます。草の生命力はすさまじい限りです。


佐藤さんの自宅前にあった、納屋の屋根がつぶれていました。

最近の地震によるものか、この冬の雪の重みによるものなのか?

昨年11月に計測した玄関前の雨どい下の線量は、82マイクロミリ

シーベルトありましたが、この日は64マイクロミリシーベルトでした。

国の安全基準は、0.23マイクロミリシーベルトですから、300倍近く

の数値です。相変わらず高いと思いました。


家のわきにある納屋の荷物を片付け、お椀に持参したペットフードと

牛乳を注ぎます。2匹の猫は小一時間いた中で、現れませんでした。

除雪機が片隅にあり、佐藤さんは、「どうかな、動くかな」とつぶやきながら、

エンジンをかけます。かかりました。エンジン音が周囲に響きました。


佐藤さんの思いは揺れ動いています。

この飯舘村に戻って農業を再開することは、事実上不可能と思いつつも、

築50年経った家をどうするのか?父母の介護は?先々の見通しが立たない

中での日々の不安と葛藤が続いているのです。

日本で唯一住むことが許されなくなった村、飯舘村。

菅野村長は、村へ戻る道を邁進していますが、一方集団離村、新たな村を

作ろうと考えるグル―プもいて、二分されているところです。


そして日本のメディアは、この地を報道することから撤退しています。

2カ月ぶりに南相馬、飯舘を訪ねた私は、このままに置き去りに出来ない場所

であると再認識しました。

「フクシマ2011~被爆に晒された人々の記録」のエンディングから、また

新たな取材を始めようと、そう決意ししました。

5月14日 稲塚秀孝