★ 大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠【韓国側の反論への再反論】 | ☆杉野洋明 極東亜細亜研究所

★ 大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠【韓国側の反論への再反論】

こんにちは!杉野洋明です。

 

2月22日「竹島の日」に、小生のブログ 「大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠」山陰中央新報さんで記事にして頂きました

 

その後、数ヶ月して、韓国側から続々と反論が出てきているようです。

 

その代表が、海洋水産動向』「石島は独島だ‐日本の‘石島=独島'説否認に対する反駁‐」(2008年4月3日)と題された柳美林氏(韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員)の論文です。

 

www.kmi.re.kr/data/linksoft/00000005/1256.pdf

 

 

10ページに渡って反論が繰り広げられているわけですが、内容の殆どが杉野が紹介して山陰中央新報さんで記事化された「皇城新聞1906年7月13日付の記事」に対する反論です。

 

韓国側ではこの皇城新聞の記事について、かなりピリピリしているようですね。

(只のリーマンのブログ記事がここまでオオゴトになるとは、驚き、というか、栄誉というか・・・複雑な気持ちです)

 

ところで、これは、どのような反論なのでしょうか?

今回は柳美林氏の反論の紹介と、それについての杉野の再反論を書かせて頂きます。

 


柳美林氏反論その1

「日本側は新聞記事の解釈を歪曲している!」


「韓国水産経済新聞」では、柳美林氏の反論のエッセンスを抜き出していますので、まずはそれを引用してみましょう。

 

http://www.fisheco.com/sub_page.html?newsNum=A20081857&newsDiff=A

 

・・・日本の学者が独島が韓国領なのを否定する根拠の一つは、皇城新聞で「この郡の管轄する島は竹島と石島で」とした後、「東西が60里で、南北が40里なので、合わせて2百余里」が鬱陵郡の管轄距離なので、石島は鬱陵島の管轄範囲外」であるというのである。

しかし、これに対して韓国の学者は文章構造上(この文章は)「竹島と石島である」と言う表現は、段落の終わる形式になり、日本の学者が「竹島と石島であり、」と間違った解釈したのだと反駁している。

つまりこの数字は、日本側の言う鬱陵島の管轄範囲と見るのではなく、鬱陵島の範囲と見なければならないというのだ。

 

なるほど、韓国語の原文で「~오」となる部分を、杉野は順接で訳したのですが、正しくは「段落を終える形」にしないといけないのですね。

では、(ご指摘どおり)「~오」の部分を段落を終える形に直してみましょう。

 

統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡廳設始月を示明せよとの故に答酬され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設證され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、郡廳は台霞洞に在し、該郡所管島はチュク島と石島である。

東西が六十里である。

南北が四十里なので、合せて二百余里だという。
 

韓国語は、日本語と同じく主語が曖昧なままでも文章として成立してしまうので、主語が分からない場合は、前後の文章の内容から主語を推測するしかないのですが・・・この文章を見ると、ますます主語が「鬱島郡」であると思えてしまうのは、杉野だけでしょうか?

 

なにせ、その前の文章の郡廳の所在地も、該郡所管島も「鬱島郡」について述べられているわけですから、最後の東西六十里、南北四十里、合わせて二百里の部分も当然「鬱島郡」について述べられたものとしか考えられませんが・・・

段落を変えても、変えなくても文章に大きい変化はなさそうです。


ところで、柳美林氏もこれだけでは反論として弱いと感じたのでしょうか?

皇城新聞の「東西六十里、南北四十里、合わせて二百里」について、過去の別の記録を引用して肉付けしようとします。


以下は「石島は独島だ‐日本の‘石島=独島'説否認に対する反駁‐」の7~8ページに書かれた内容をまとめたものです。

 

 

柳美林氏反論その2

「別の記録で鬱陵島の範囲が二百里であると書かれている」

 

・・・皇城新聞にもやはり距離)関係が出ているが、これは奇妙にも金正浩(19世紀の地理学者)が記述した距離関係に近い。金正浩は”東西は70里,南北は50里。まわりは200里”と言ったが,皇城新聞には ”東西は60里,南北は40里,まわりは 200里”となっているからだ。

二つの記録の間には、東西南北で10里位の偏差があるだけである。(中略)

偶然かは分からないが、皇城新聞の記事は、皇城新聞の記録と最もよく似ている。(中略)

金正浩の記録が鬱陵島に関する距離関係のようにl、皇城新聞の里数も鬱陵島の距離関係を表現したと考えられる。そうだとすれば、皇城新聞で言う”‘東西60里。南北が40里。合わせて200余里”’はまさに鬱陵島に関して言ったことであり、日本が主張するように鬱陵邑の管轄範囲であると見るのは難しい。

 

上述の”東西は70里,南北は50里。まわりは200里”の引用元ですが、これは1861年に、地理学者の金正浩が「大東輿地図」で、鬱陵島の地理について述べた内容だそうです。

他の記録と照らし合わせて比較検証することは、真相を解明する上で、非常に重要な作業とは思います。

 

しかし、比較検証する場合、極力、情報源は同じものを使用する、という前提は無視されているようです。

 

勿論、この場合の”情報源”とは「皇城新聞」になるわけですが、皇城新聞で、鬱陵島の大きさについての記録は残っていないのでしょうか?


・・・そんなことはありません。もうお気付きかと思いますが、「皇城新聞」で鬱陵島の大きさについて述べられた記事があります。

 


1899年皇城新聞
皇城新聞1899年9月23日

 

「大韓地誌曰く鬱陵島は古ウサン国であり、地方は百里である」

 

 

大韓地誌が著されたのが1899年ですので、当時の最新の地理書で大きさを記載していたことになります。

何故ワザワザこの記事より40年近く前の、全く別の資料(1861年の大東輿地図)を引用するのでしょうか?


 

見てのとおり、こちらの記事では、主語がはっきりと「鬱陵島」と記載されています。となれば、7年後の1906年の「東西六十里、南北四十里、合わせて二百里」は鬱陵島の大きさではない数字、であると推測されます。

となれば、答えは言うまでもなく「鬱島郡」しかありませんよね。

 

上述の通り、「東西六十里、南北四十里、合わせて二百里」が鬱島郡の範囲であることが再確認できたわけですが、では、勅令41号やこの皇城新聞で出てくる石島とはどの島なのでしょうか?

 

これについては、石島がどの島なのかを示唆する文献を、新たに発見することが出来ました。

 

長くなりましたので、それについては、また改めて、述べさせて頂きます。