やっと手代木直右衛門が岡山県内に赴任するまで辿り着きました。(^_^;)

明治11(1878)年9月20日になって、岡山県川上郡長に就任して居ます。

岡山県川上郡は、備中松山藩の高梁や、現在は漫画の世界でも知られる成羽町に当たり

 

ます。高知県権参事が明治7(1874)年1月21日から明治9(1876)年10月5日の間な

 

ので、川上郡長に就任までに2年間の空白が有るのですが、この期間は公人でなく私人と

 

して暮らしたのではないかと思はれるのです。前回ちょっと触れましたが、板垣退助を生ん

 

だ土佐は、自由民権運動が起きて、その時期が手代木退官の時期と殆ど被っているのは、

 

その関連も有ったのではないだろうかと推測するのですが…。

翌明治12(1879)年も押し迫った12月25日、手代木は隣接した賀陽郡長に転じています。

以前岡山県には「賀陽町」が有りましたが、以前の賀陽郡は南に延びて居て、旧足守藩や浅

 

尾藩辺り迄が含まれ、三大稲荷の一つ「高松稲荷」辺りも賀陽郡でした。TSさんの資料でもこ

 

の備中高松近辺に住まいというか、郡役所が有ったのです。すぐ近くの足守藩はねねゆかり

 

の地、適塾で知られる緒方洪庵や、土方歳三側近で、白河口や会津戦争では、斉藤一ととも

 

に活躍した安富才助の出身藩です。

手代木はその賀陽郡長を明治16(1883)年まで務めて居ますが、そののちは現在の岡山市

 

長に相当する「岡山区長」に任じられますが、明治22(1889)年1月18日まで区長職を務め

 

ました。

在任中の明治17(1884)年に、石川県令(現在の県知事)から岡山県令に転じた千坂高雅は、

 

明治27(1894)年迄公職を務めています。明治19(1886)年7月19日からは官制改正によ

 

り、初代岡山県知事に成っています。この千坂は明治新政府で大久保利通の下で働いた実績を

 

持ち、手代木勝任死亡に際しては墓碑銘を書いています。


岡山区長を辞任した手代木は、明治22(1889)年1月18日に西北条郡・東南条郡長に転じて、

 

25(1892)年からは、東北条郡長を兼務していて、27(1894)年4月1日を以て退官して居ます。

 

西北条郡・東南条郡は、現在の津山市中心部から東津山辺りから津山市加茂辺りに成りますが、

 

ここで務めていた明治24(1891)年には、先に紹介した甘糟鷲雄と結婚して、長女初子・次女のぶ

 

子の母親で手代木の次女の仲江が亡くなって仕舞うのです。初子は当時未だ10歳と幼かったので、

 

不憫に思った手代木が二人を引き取ることにしたのですが、翌年夫の甘糟鷲雄も亡くなって仕舞いま

 

した。

初子は津山で祖父の手代木勝任の許で暮らした時代が有ったと、新島夫妻の研究家としても知られる、

 

同志社大本井康弘教授も、昨年11月22日に岡山市内で開かれた「同志社校友会岡山県支部」の親睦

 

会の席上の講演会でも話していらっしゃいました。


一方甘糟家では、長子の鷲雄夫妻が亡くなったのを受け、鷲雄の弟の三郎が甘糟本家の家督を相続し

 

ます。往時は三郎も生活にゆとりも有って、初子とのぶ子を養女にしたとの記述がありますが、私は確認

 

できていません。


京都で新島襄夫人として暮らしていた八重の暮らしの一端が、この程改訂された「福島県県南地方振興局」

 

発行の「戊辰としらかわ」に紹介されています。

 明治15(1882)年7月17日、襄・八重・伊勢時雄(幕末の硯学、横井小南の息子)、みね(前年に伊勢と
 結婚した覚馬の娘)の4人は、襄の故郷の安中(群馬県)から会津若松に向けて立ち、人力車や馬車を利
 用して高崎を経由し、日光に立ち寄り、奥州街道を通って、25日夕刻白河に入りました。襄が徳富蘇峰に
 宛てた手紙にその記述があります。
 白河からは会津街道を通り、勢至堂峠を越えて若松に向かったと思われます。戊辰戦争最大の激戦地で
 あった白河口の戦場跡や、奥州街道沿いにある会津藩士などの墓は、共に苦しい籠城戦を経験した八重
 の目には、どのように映ったのでしょう。

   廿五日、黒川(源ヲ有名ナル那須山ニ発ス)之橋激流之為ニ流サレ、全ク破壊セシヲ以テ、川留トナリ、
   殆ド半日ヲ空ク消費、点灯ノ時ニ至リ、白川ニ達ス。此地、維新之際、東西軍之大ニ激戦セシ所ナリ。
   町之入口ニ、東西軍戦死ノ士ノ墓アリ。
   廿六日。生等、馬ニノリ若松ニ入リ、此ノ山ヲ越ヘ、此ノ峠ヲ上下シ、彼ノ嶮ヲ越へ、ドタバタゝゝゝゝ馬ニ
   引カレテ若松ニ参ル。其堪忍御了察アレ。一日半ノ馬行ニテ、昨廿七日、統治(註・ママ)、安着仕リ候
   間、御安心 被下度候。 


時は移って明治23(1890)年1月、同志社の拡大に全国を飛び回っていた途中、神奈川県大磯で倒れて療

 

養中の新島襄は危篤状態に陥ってしまいます。知らせを受けた八重は、京都から急ぎ駆けつけました。昼夜

 

を問わず献身的に看病を続けましたが、23日、襄は八重の腕に抱かれながら「グッドバイ、また会わん」と言

 

い残して亡くなりました。僅か14年の結婚生活でしたが、襄にとっての八重は世間で言われていた悪妻どころ

 

か、生涯最良の伴侶だったのです。八重を評して「鵺(ぬえ)」のような恐ろしい女と言った徳富蘇峰も、この臨

 

終の席でこれまでの非礼を詫びて、八重と和解しています。

   今回の更新を完結編にしたかったのですが、もう少し書き足りなく成って仕舞いました。
   手代木勝任の孫、甘糟鷲雄の娘が、八重の養女に成る時がかなり近付いて来ました。
   次回こそ完結したいと思いますので、もう少しお付き合い下さい。と言う訳で⑩に続きます。