もうちょっとだけ手代木直右衛門の話を続けましょう。
手紙自体がまるで遺書のような手紙をしたためた直右衛門は、江戸から美濃高須藩預かりと成った
のでした。43歳の秋のことでした。
それから四年間の月日が流れた明治4(1871)年9月に名古屋に御預け替え、12月には青森県預
けと成って、5年ぶりに妻の許へ帰ったのです。更に翌明治5(1872)年2月6日特赦を受け、やっと
自由の身に成ることが出来ました。4月16日、青森県から呼び出しを受け、任官の命が有ったのです。
一度は刃向った政府への任官で有ったため、旧君・容保公にもお伺いをと、5月3日になって上京して
意を伺ったと言います。容保公は快諾し「新政府に仕え、奉公されよ」との言葉を頂いたのでした。
すぐに秋月悌次郎とともに左院小議生となり、その年の11月には香川県権参事(副知事)・正七位と成
ったのでした。それ以降明治6(1873)年高知県勤務、翌7(1874)年2月には高知県権参事に転じて
居ます。
土佐と言えば会津とは敵対関係であったことや、何と言ってもあの「坂本龍馬」暗殺の黒幕としては、又
会津鶴ヶ城籠城戦の降伏交渉の相手・板垣退助の出身地でもあり、内心複雑な心境であったことは想像
に難くありません。そうした四国路へ赴任する際の出身地は会津ではなく青森県に成っていますが、賊軍
の会津藩よりも、転封された斗南藩の有る青森出身としたものと考えられます。
手代木が青森に移ったころ、山本八重は京都府顧問と成っていた兄・覚馬を頼って、母や姪らと共に京都
に移って暮らし始めたことは、すでに紹介した通りです。自らも英語を習い、やがて新島襄と出会いやがて
結婚と成ります。明治9(1876)年に結婚式を挙げる前日に洗礼を受け、日本で初めてのキリスト教式の
式を挙げました。それも、京都と言う土地柄が神社仏閣の極めて多いところだけに、結婚後も含めてとやか
く言う声も多かったようでしたが、そんなことは一切気に留めない二人だったのです。
結婚して3か月後には、襄の両親・姉・義理の甥を呼び寄せ、借家住まいながら一緒に暮らし始めて居ます。
しかし、二人を見た京都の人々は、アメリカ暮らしでレディーファーストが身に付いた新島襄と、襄と呼び捨て
にして、人力車に先に乗る八重を良くは言いませんでした。「鵺のような、恥知らずの女」と、本人の前で声高
に言ったりしたようでした。
新島襄と八重の結婚から5年、手代木が高知県に赴任してから、7年経った明治14(1881)年に、当時21歳
で米沢藩の甘糟鷲雄と結婚していた、手代木の次女・仲枝が長女・初子が生まれて居るのです。
しばらくは新島家、手代木家、甘糟家とも落ち着いた時期が有りますが、特に世相の動きの速いこの時代なので、
平穏な時期がそう長くは続きません。同志社は順調に施設なども充実をしていきます。役人の手代木は頻繁な転
勤も有ります。
しかし、高知県権参事在勤中の明治9(1876)年に突然退職して居ます。
これは推測ですが、当時高知では自由民権運動が起こり、ちょっとした騒動みたいな感じに成っていたようです。そ
のことと退職が関係あるのかははっきりとはしていません。
それから2年後に、手代木の以後の生活拠点とも言うべき岡山県で郡長として務めるのです。明治11年の事でした。
こうした動きで新島襄、手代木直右衛門は岡山とつながったのですが、未だ八重とが
繋がっていません。もう少しまで行きましたが、次回その⑨で何とか完結?かも…
手紙自体がまるで遺書のような手紙をしたためた直右衛門は、江戸から美濃高須藩預かりと成った
のでした。43歳の秋のことでした。
それから四年間の月日が流れた明治4(1871)年9月に名古屋に御預け替え、12月には青森県預
けと成って、5年ぶりに妻の許へ帰ったのです。更に翌明治5(1872)年2月6日特赦を受け、やっと
自由の身に成ることが出来ました。4月16日、青森県から呼び出しを受け、任官の命が有ったのです。
一度は刃向った政府への任官で有ったため、旧君・容保公にもお伺いをと、5月3日になって上京して
意を伺ったと言います。容保公は快諾し「新政府に仕え、奉公されよ」との言葉を頂いたのでした。
すぐに秋月悌次郎とともに左院小議生となり、その年の11月には香川県権参事(副知事)・正七位と成
ったのでした。それ以降明治6(1873)年高知県勤務、翌7(1874)年2月には高知県権参事に転じて
居ます。
土佐と言えば会津とは敵対関係であったことや、何と言ってもあの「坂本龍馬」暗殺の黒幕としては、又
会津鶴ヶ城籠城戦の降伏交渉の相手・板垣退助の出身地でもあり、内心複雑な心境であったことは想像
に難くありません。そうした四国路へ赴任する際の出身地は会津ではなく青森県に成っていますが、賊軍
の会津藩よりも、転封された斗南藩の有る青森出身としたものと考えられます。
手代木が青森に移ったころ、山本八重は京都府顧問と成っていた兄・覚馬を頼って、母や姪らと共に京都
に移って暮らし始めたことは、すでに紹介した通りです。自らも英語を習い、やがて新島襄と出会いやがて
結婚と成ります。明治9(1876)年に結婚式を挙げる前日に洗礼を受け、日本で初めてのキリスト教式の
式を挙げました。それも、京都と言う土地柄が神社仏閣の極めて多いところだけに、結婚後も含めてとやか
く言う声も多かったようでしたが、そんなことは一切気に留めない二人だったのです。
結婚して3か月後には、襄の両親・姉・義理の甥を呼び寄せ、借家住まいながら一緒に暮らし始めて居ます。
しかし、二人を見た京都の人々は、アメリカ暮らしでレディーファーストが身に付いた新島襄と、襄と呼び捨て
にして、人力車に先に乗る八重を良くは言いませんでした。「鵺のような、恥知らずの女」と、本人の前で声高
に言ったりしたようでした。
新島襄と八重の結婚から5年、手代木が高知県に赴任してから、7年経った明治14(1881)年に、当時21歳
で米沢藩の甘糟鷲雄と結婚していた、手代木の次女・仲枝が長女・初子が生まれて居るのです。
しばらくは新島家、手代木家、甘糟家とも落ち着いた時期が有りますが、特に世相の動きの速いこの時代なので、
平穏な時期がそう長くは続きません。同志社は順調に施設なども充実をしていきます。役人の手代木は頻繁な転
勤も有ります。
しかし、高知県権参事在勤中の明治9(1876)年に突然退職して居ます。
これは推測ですが、当時高知では自由民権運動が起こり、ちょっとした騒動みたいな感じに成っていたようです。そ
のことと退職が関係あるのかははっきりとはしていません。
それから2年後に、手代木の以後の生活拠点とも言うべき岡山県で郡長として務めるのです。明治11年の事でした。
こうした動きで新島襄、手代木直右衛門は岡山とつながったのですが、未だ八重とが
繋がっていません。もう少しまで行きましたが、次回その⑨で何とか完結?かも…