人類最長の小説
数ヶ月前、栗本薫という作家が死去した。
そのニュースを読むと、「人類最長の小説を書いた作家」だという。
数少ない僕の趣味が読書。
「人類最長の小説ってどんなもんじゃい?」と思って、
まず最初の6巻だけ買って読んでみたが、ぐいぐい引き込まれて、残り122巻を買って読んだ。
人類最長は、伊達じゃないと思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
年があけて2月と3月のあいだに、五冊の本を書きおろそうとしています。二月あたまからすでに三冊書きました・・・何でこんなにかけちゃうのかわかりませんが、ひとつだけ確かなのは、4日で一冊書いたときと8日で一冊書いてたときと、そして二カ月かけて書いたとしてもあんまりどうも内容には関係ないようだ、ということです。・・・こんなばかげたことを他の人が考えないのは、一時間二十枚描くのが大変だからではなく、一時間二十枚描くのを「維持する」のが大変だからです。一時間十枚で四十時間の方がもっと大変かもしれません。どうやら、栗本薫という狂ったヒトの問題点というか狂ったトコロは、その「創作力」や「文章力」にあるというより、その「集中力」及び「集中力維持力」にあるらしい、ということがだんだんわかってきました。・・・皆さんはびっくりしますが、結局私は「集中力のコントロールの仕方を覚えた人類」なんだろうなと思います
(グイン・サーガ 60巻 作者あとがき P283)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔読んだインタビュー記事に、スーパープログラマの話があった。
そのプログラマは、コードをかきながら次のコードを考える、ということをせず、
頭の中にすでにまず全てのコードの構想を組み立て終える。
そして、キーボードを叩くときは、何も考えず、
頭の中にあるものをただただキーボードにたたいていくだけにすぎないのだという。
だから、そのプログラマにとって、
キーボードをたたくという肉体作業部分が歯がゆくてたまらない、
なぜなら、全ての工程のボトルネックがそこなのだから、という。
この栗本薫という作家も、まさにそうで、
頭の中に、全128巻分の物語がすっぽりと入っているのだが、
それを文章としてつむぎだしていくのにかかる時間が、
30年間かかったのだと思う。
そして、このようなことは、ほとんどの作家にはできることではない
・単一のストーリーで論理的破綻なく128巻もつむぎだせるほどの構想力があるかどうか
・構想力があっても、30年間商品として売れ続けられるエンターテイメント性があるかどうか
・構想力・エンターテイメント性があってなお、長編にこだわるかどうか (長編よりも短編の方が経済的にはトク。例えば100巻目は、99巻まで読み進んできてくれた人にしか売れないから、長編を1シリーズ100巻分出すちからがあったら、短編を1巻ずつ100シリーズ書いた方が売れるはず)
栗本薫という人は、文学賞などで高く評価されている人ではないが、
まさに、才能を持った人だったのだと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
通算2500万部ということは、外伝を入れて百巻として、つまりは一冊につき、平均二十五万部を売り上げているということになります。それを1979年から、二十三年間にわたって維持しつづけてきた、ということは、もはや、名実ともに、古今未曾有、空前絶後、おそらくは二度と再現されることのないスケールの物語が誕生し、そして着々と完成に向かいつつあるのだ、と認めても、どこからも文句の出るおそれはありますまい。数字はすべてではありませんが、どの数字も私にとってはこれまで私が五十年間生きてきたことのなかでの、おのれの生き方のあかしであり、作り上げてきたもののすがたであり、そして誇りであるといまは胸をはっていいたい気持です。福田和也さんの「作家の値打ち」のなかでも、エンターテイメントとしての最高得点をつけていただき、世界文学に誇るレベルの作品、の最上位においてもらいましたが、おそらくは、そうした数字や評価にもまして、私たちにとっては、この物語そのものと、それをずっと愛し続けてきてくれた読者のかたたちの存在こそが、最高の評価であり、はげましであるのだと思います。
(「グイン・サーガ」85巻 作者あとがき P315)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長編が続くコツは、各キャラクターが丁寧に描きこまれているかどうか。
80巻までは別々につむぎ出されていたキャラクターの人生、
80巻ころから、一気に交差し始める。
だから、この物語は、特に80巻を過ぎてから面白くなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イシュトヴァーンは、何か世にも奇妙なものをでも見るように、じっとその二人ーーかつて彼が友と呼び、あるいは愛して、そしてひとたび別れ、まためぐりあった二人の旧知を見つめていた。かれらは変わっていたーーそしてまた、変わっていなかった。かれらの気性は、おのれの信じたままの方向にまっすぐに発展し、みごとに開花をとげ、そしてかれらを力強く輝かせていた。かれらはかつて彼の知っていたとおりのかれらであり、そしてまた、すでにそのあのころの彼らではありえなかった。かれらは年をかさね、さまざまの人生の苦難になって多くを学び、多くを経験し、そしてここに誇りやかに立っていたのだ。
(「グイン・サーガ」85巻 P191)
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いよいよこの未曽有の物語も佳境に入って来て、このところ毎回のようにおおいなる波乱が続いています。そしてまた、これまでは別々の場所でそれぞれの物語を織ってるように見えた何人もの主人公たちが、いよいよ一堂に会して、たがいに様々な変遷をかさねた運命のはてに、ふたたびひとつの運命をわかちあい、あるいは互いが互いの運命となる、という、そういう時期を迎えるようになった、といってもいいようです。
・・・・・・
おかげさまをもちまして、八十巻以降、読者の皆様のご支持もうなぎのぼりとなっているような手応えを私のほうも感じております。
(「グイン・サーガ」85巻 作者あとがき P313)
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好きな個所をいくつか抜き出してみた。
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「どうやってかは知らん。俺はただ、やってみるだけだ。それが大人の男、一人前の戦士のやることだ。四の五のやる前からさわぐのは餓鬼のすることだ」
(「グイン・サーガ」82巻 P173)
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「夢を見てしまった人間はーー恐ろしく孤独になる。空恐ろしいほど、孤独になるのだよ、イシュトヴァーン。それでもーーそれでもお前はあえて野心に身をまかせるか? その孤独という代償を払ってすら、この野心をもちつづけることは価値があると思うだろうか? むろんいまのおまえは思うに違いない。それが若いということなのだ。孤独など何の恐れるにたろうかと思うことーーたしかに野心をもちうるということ自体が、ひとつのすぐれた素質、他のものとちがう運命、ぬきんでた資質を示しているのだ。だがそれにすすんで身をゆだねるとき、ひとはもう二度とかえれぬ道へふみ出してゆくのだとは思ってもみない。ひとはみな、自分は何かを得ようと思ってふみだすので、何ひとつ失うことなどありえないと思っている。だが、ディーン、そうではないのだーーそのとき、ひとはまぎれもなく巨大な代償を支払うのだよ。その代償とはすなわち、他の多くの人間のようであること、平和とささやかな満足感、世の中とも人ともうまくゆき、たしかでゆるぎない自らの場所をしめ、そのことに満足しておだやかに、和やかに生きて、自分はひととして持ちうるもので満足した、という充足感のうちに死んでゆけることーーそして、また、他に誰ひとりとしておのれに似かよったものはないのだという、恐ろしい血も凍るような孤独を、ついに一生知らずにすむ幸福ーー」
(グイン・サーガ 15巻 P31)
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「あの哀れなライオスやバルドゥールにはどうしてもわからぬことーーつまり、一国を治めてゆく、皇帝の座などというものが、なんら羨まれるべきものではなく、むしろ汚い仕事、辛いそんな仕事、かぎりない煩雑さと面倒にみちた、下らぬものだということが、何故かは知らず、おまえには天性わかっているようであるからだ。」
(グイン・サーガ 21巻 P66)
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「王になって何をしようというのだ。王など、とうていおぬしがなりたがるようなものではないーー王など、国をあずかって人々のために身を粉にして働く下働きにしかすぎんぞ。あまりにもそれが大変であればこそ、王としての名声だの金だの権力だのがあてがわれて、あわれな王たちが不平不満を言わずに人民のために働くよう、あやしているにすぎん」
(「グイン・サーガ」92巻 P29)
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「あんた、ずっと王様なり将軍なり・・・・・・それもケイロニアみたいな大国のさ、やってきて、イヤになんねえのか。もうたくさんだ。何もかもぶち捨てて逃亡してえって気に、なることはないのか・・・俺はもう、これまでに何回でも、ほとほとウンザリだ、もうこりごりだ、逃げ出してひとりでしたいほうだいして暮らしたほうがどんなにいいか知れねえって思ったぜ」
(「グイン・サーガ」87巻 P47)
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「われわれ国王だの王族だの大公だのーー一国を仕切り、支配し、国益やもっと巨大な目的をたえず念頭において動いているものはね、時として本当に身もふたもないし、また時として本当に面子も体面も主義主張さえもない時もあるのだよ。・・・・・・そうでなくては、やってゆけないからね。それがひととしてふたごごろありと思われることもあろうし、また許しがたい信ずべからざる背徳のともがらとみられることもあろう。だがそれはーーそうした貴人というものはある意味、本当の意味ではもう、《ひと》ではない、ということだと私は思うよ。我々は神聖な・・・・・個人としての信義よりもさらに重大な、支配者としての目的のために動いている。おのれ個人の身や誇りよりさえも時としてあまりにも重大な、ね」
(「グイン・サーガ」86巻 P174)
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(俺も・・・そろそろ・・・本当に、あのかたを追憶にしなくては・・・)
時は流れている。
本当はまだ、ふれさえしたら血を吹き出すような生々しい傷口だろう。だが、それも、そっとかかえたまま、生きているものは、生き続けてゆかなくてはならないのだ。時は、どんどん流れ、そして、このそれほど長からぬ時のあいだにさえ、おびただしい変化がパロをも、そしてヴァレリウスをも、またリンダをもたぶん、訪れているのだ。
(生きてゆかなくてはーー)
ふりしぼるように、ヴァレリウスは思っていた。
(「グイン・サーガ」107巻 P301)
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「人間は小さく、その一人一人の力は悲しいまでに卑小であり、無力であり、そしてその生はお前たちから見れば実にとるにたらぬ虫けらに思われるほどに短い。須臾の間というのもおろかな短さだろうーーそれゆえにこそ、ヤンダルにもお前にも、ひと一人のよろこびやかなしみやーーその生まれてきて、愛し、愛され、そして年老いて死んでゆくまでの短い一生などというものには何の値打も価値も見出せぬのかもしれぬ。だが、人間とは、たとえその短い一生のあいだに、お前たちからみれば何ひとつなしとげ得ずとも、逆に、お前たちのように巨大であったり、集合生命体になることが出来ぬからこそ、ひとりひとりの小さな夢や約束や未来やーー愛情やにくしみや、そうしたひとりひとりのささやかないのちを燃やし、それをときに世界のために使うことさえも出来るものなのだ。・・・一人一人、まったく別々の存在であり、あるものは賢く、あるものはおろかであり、あるものは醜く、あるものは美しく、あるものは八百年もの生を魔道によって得、あるものはまだ幼い子供のうちに死なねばならずーーそのすべてのおおいなる不条理、不平等、それを摂理として受け入れたとき、それは人間にとって、お前たちには決して理解できぬ最大の力となったのだ。--無力なること、人の子の子の無力、それこそがな」
(「グイン・サーガ」92巻 P36)
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漫画「ベルセルク」好きにはたまらないんじゃないかと思う。
作者は、晩年、癌で苦しみを味わう中、それでも書き続けた。
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秋口から冬にかけてはほんと具合悪かったです。腹痛、内臓痛に背中痛に腰痛、次から次へと、ころげまわったり救急車呼ぶほどじゃないんだけれども、眠れなかったりじっとしていられない程度の、つまり一番始末がわるい程度の痛みに見舞われ、鎮痛剤もなかなかきかなかったり、きいたらこんどは眠れなくなってしまって不眠症で苦しんだりーー半年続けてきた抗ガン剤がいよいよ相当からだに毒をためこんできたらしく、休薬期間になってもものが食べられず、体重は落ちる一方、かろうじて口に入るのは最初は蒸しパン、それから焼き菓子だけで、夜中に「なんでこんなものを食べなくちゃいけないんだろう」と泣きながら焼き菓子を口にお茶で流し込んで吐いてしまったりとかしていました。お米とか、お粥とか、そういうものが匂いさえ駄目になってしまったのが、御飯好きの私にはかなりの衝撃でしたね。徐々にようやく治っていって、十二月の末に、白菜のおしんこと海苔で白いご飯が食べられたときの感激ったらありませんでした。大袈裟にいうなら、手術が無事終わって退院したときよりもさえ感激したくらいです。
・・・自分自身も「生きて」この年明けにたどりつくことができただけで、「よかったなあ」という気分です。二〇一〇年が、二〇一一年が私にくるかどうかは、これはもうヤーンの決めること。もう何も考えずに、ただ、ちょっとでも沢山グインを先に進めておきたいなと思います。やっといろいろな下地がすべて終わって、まさにこれからが本当の意味での「三国志のはじまり」だと思いますから。
(「グイン・サーガ」125巻 作者あとがき P301)
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とにかく「文字にして自分の外に出すこと」への妄執、というものだけが私を突き動かしてます
(「グイン・サーガ」95巻 作者あとがき P309)
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栗本薫という稀有な才能に敬意を表したい。
そのニュースを読むと、「人類最長の小説を書いた作家」だという。
数少ない僕の趣味が読書。
「人類最長の小説ってどんなもんじゃい?」と思って、
まず最初の6巻だけ買って読んでみたが、ぐいぐい引き込まれて、残り122巻を買って読んだ。
人類最長は、伊達じゃないと思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
年があけて2月と3月のあいだに、五冊の本を書きおろそうとしています。二月あたまからすでに三冊書きました・・・何でこんなにかけちゃうのかわかりませんが、ひとつだけ確かなのは、4日で一冊書いたときと8日で一冊書いてたときと、そして二カ月かけて書いたとしてもあんまりどうも内容には関係ないようだ、ということです。・・・こんなばかげたことを他の人が考えないのは、一時間二十枚描くのが大変だからではなく、一時間二十枚描くのを「維持する」のが大変だからです。一時間十枚で四十時間の方がもっと大変かもしれません。どうやら、栗本薫という狂ったヒトの問題点というか狂ったトコロは、その「創作力」や「文章力」にあるというより、その「集中力」及び「集中力維持力」にあるらしい、ということがだんだんわかってきました。・・・皆さんはびっくりしますが、結局私は「集中力のコントロールの仕方を覚えた人類」なんだろうなと思います
(グイン・サーガ 60巻 作者あとがき P283)
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昔読んだインタビュー記事に、スーパープログラマの話があった。
そのプログラマは、コードをかきながら次のコードを考える、ということをせず、
頭の中にすでにまず全てのコードの構想を組み立て終える。
そして、キーボードを叩くときは、何も考えず、
頭の中にあるものをただただキーボードにたたいていくだけにすぎないのだという。
だから、そのプログラマにとって、
キーボードをたたくという肉体作業部分が歯がゆくてたまらない、
なぜなら、全ての工程のボトルネックがそこなのだから、という。
この栗本薫という作家も、まさにそうで、
頭の中に、全128巻分の物語がすっぽりと入っているのだが、
それを文章としてつむぎだしていくのにかかる時間が、
30年間かかったのだと思う。
そして、このようなことは、ほとんどの作家にはできることではない
・単一のストーリーで論理的破綻なく128巻もつむぎだせるほどの構想力があるかどうか
・構想力があっても、30年間商品として売れ続けられるエンターテイメント性があるかどうか
・構想力・エンターテイメント性があってなお、長編にこだわるかどうか (長編よりも短編の方が経済的にはトク。例えば100巻目は、99巻まで読み進んできてくれた人にしか売れないから、長編を1シリーズ100巻分出すちからがあったら、短編を1巻ずつ100シリーズ書いた方が売れるはず)
栗本薫という人は、文学賞などで高く評価されている人ではないが、
まさに、才能を持った人だったのだと思う。
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通算2500万部ということは、外伝を入れて百巻として、つまりは一冊につき、平均二十五万部を売り上げているということになります。それを1979年から、二十三年間にわたって維持しつづけてきた、ということは、もはや、名実ともに、古今未曾有、空前絶後、おそらくは二度と再現されることのないスケールの物語が誕生し、そして着々と完成に向かいつつあるのだ、と認めても、どこからも文句の出るおそれはありますまい。数字はすべてではありませんが、どの数字も私にとってはこれまで私が五十年間生きてきたことのなかでの、おのれの生き方のあかしであり、作り上げてきたもののすがたであり、そして誇りであるといまは胸をはっていいたい気持です。福田和也さんの「作家の値打ち」のなかでも、エンターテイメントとしての最高得点をつけていただき、世界文学に誇るレベルの作品、の最上位においてもらいましたが、おそらくは、そうした数字や評価にもまして、私たちにとっては、この物語そのものと、それをずっと愛し続けてきてくれた読者のかたたちの存在こそが、最高の評価であり、はげましであるのだと思います。
(「グイン・サーガ」85巻 作者あとがき P315)
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長編が続くコツは、各キャラクターが丁寧に描きこまれているかどうか。
80巻までは別々につむぎ出されていたキャラクターの人生、
80巻ころから、一気に交差し始める。
だから、この物語は、特に80巻を過ぎてから面白くなる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イシュトヴァーンは、何か世にも奇妙なものをでも見るように、じっとその二人ーーかつて彼が友と呼び、あるいは愛して、そしてひとたび別れ、まためぐりあった二人の旧知を見つめていた。かれらは変わっていたーーそしてまた、変わっていなかった。かれらの気性は、おのれの信じたままの方向にまっすぐに発展し、みごとに開花をとげ、そしてかれらを力強く輝かせていた。かれらはかつて彼の知っていたとおりのかれらであり、そしてまた、すでにそのあのころの彼らではありえなかった。かれらは年をかさね、さまざまの人生の苦難になって多くを学び、多くを経験し、そしてここに誇りやかに立っていたのだ。
(「グイン・サーガ」85巻 P191)
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いよいよこの未曽有の物語も佳境に入って来て、このところ毎回のようにおおいなる波乱が続いています。そしてまた、これまでは別々の場所でそれぞれの物語を織ってるように見えた何人もの主人公たちが、いよいよ一堂に会して、たがいに様々な変遷をかさねた運命のはてに、ふたたびひとつの運命をわかちあい、あるいは互いが互いの運命となる、という、そういう時期を迎えるようになった、といってもいいようです。
・・・・・・
おかげさまをもちまして、八十巻以降、読者の皆様のご支持もうなぎのぼりとなっているような手応えを私のほうも感じております。
(「グイン・サーガ」85巻 作者あとがき P313)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
好きな個所をいくつか抜き出してみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「どうやってかは知らん。俺はただ、やってみるだけだ。それが大人の男、一人前の戦士のやることだ。四の五のやる前からさわぐのは餓鬼のすることだ」
(「グイン・サーガ」82巻 P173)
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「夢を見てしまった人間はーー恐ろしく孤独になる。空恐ろしいほど、孤独になるのだよ、イシュトヴァーン。それでもーーそれでもお前はあえて野心に身をまかせるか? その孤独という代償を払ってすら、この野心をもちつづけることは価値があると思うだろうか? むろんいまのおまえは思うに違いない。それが若いということなのだ。孤独など何の恐れるにたろうかと思うことーーたしかに野心をもちうるということ自体が、ひとつのすぐれた素質、他のものとちがう運命、ぬきんでた資質を示しているのだ。だがそれにすすんで身をゆだねるとき、ひとはもう二度とかえれぬ道へふみ出してゆくのだとは思ってもみない。ひとはみな、自分は何かを得ようと思ってふみだすので、何ひとつ失うことなどありえないと思っている。だが、ディーン、そうではないのだーーそのとき、ひとはまぎれもなく巨大な代償を支払うのだよ。その代償とはすなわち、他の多くの人間のようであること、平和とささやかな満足感、世の中とも人ともうまくゆき、たしかでゆるぎない自らの場所をしめ、そのことに満足しておだやかに、和やかに生きて、自分はひととして持ちうるもので満足した、という充足感のうちに死んでゆけることーーそして、また、他に誰ひとりとしておのれに似かよったものはないのだという、恐ろしい血も凍るような孤独を、ついに一生知らずにすむ幸福ーー」
(グイン・サーガ 15巻 P31)
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「あの哀れなライオスやバルドゥールにはどうしてもわからぬことーーつまり、一国を治めてゆく、皇帝の座などというものが、なんら羨まれるべきものではなく、むしろ汚い仕事、辛いそんな仕事、かぎりない煩雑さと面倒にみちた、下らぬものだということが、何故かは知らず、おまえには天性わかっているようであるからだ。」
(グイン・サーガ 21巻 P66)
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「王になって何をしようというのだ。王など、とうていおぬしがなりたがるようなものではないーー王など、国をあずかって人々のために身を粉にして働く下働きにしかすぎんぞ。あまりにもそれが大変であればこそ、王としての名声だの金だの権力だのがあてがわれて、あわれな王たちが不平不満を言わずに人民のために働くよう、あやしているにすぎん」
(「グイン・サーガ」92巻 P29)
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「あんた、ずっと王様なり将軍なり・・・・・・それもケイロニアみたいな大国のさ、やってきて、イヤになんねえのか。もうたくさんだ。何もかもぶち捨てて逃亡してえって気に、なることはないのか・・・俺はもう、これまでに何回でも、ほとほとウンザリだ、もうこりごりだ、逃げ出してひとりでしたいほうだいして暮らしたほうがどんなにいいか知れねえって思ったぜ」
(「グイン・サーガ」87巻 P47)
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「われわれ国王だの王族だの大公だのーー一国を仕切り、支配し、国益やもっと巨大な目的をたえず念頭において動いているものはね、時として本当に身もふたもないし、また時として本当に面子も体面も主義主張さえもない時もあるのだよ。・・・・・・そうでなくては、やってゆけないからね。それがひととしてふたごごろありと思われることもあろうし、また許しがたい信ずべからざる背徳のともがらとみられることもあろう。だがそれはーーそうした貴人というものはある意味、本当の意味ではもう、《ひと》ではない、ということだと私は思うよ。我々は神聖な・・・・・個人としての信義よりもさらに重大な、支配者としての目的のために動いている。おのれ個人の身や誇りよりさえも時としてあまりにも重大な、ね」
(「グイン・サーガ」86巻 P174)
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(俺も・・・そろそろ・・・本当に、あのかたを追憶にしなくては・・・)
時は流れている。
本当はまだ、ふれさえしたら血を吹き出すような生々しい傷口だろう。だが、それも、そっとかかえたまま、生きているものは、生き続けてゆかなくてはならないのだ。時は、どんどん流れ、そして、このそれほど長からぬ時のあいだにさえ、おびただしい変化がパロをも、そしてヴァレリウスをも、またリンダをもたぶん、訪れているのだ。
(生きてゆかなくてはーー)
ふりしぼるように、ヴァレリウスは思っていた。
(「グイン・サーガ」107巻 P301)
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「人間は小さく、その一人一人の力は悲しいまでに卑小であり、無力であり、そしてその生はお前たちから見れば実にとるにたらぬ虫けらに思われるほどに短い。須臾の間というのもおろかな短さだろうーーそれゆえにこそ、ヤンダルにもお前にも、ひと一人のよろこびやかなしみやーーその生まれてきて、愛し、愛され、そして年老いて死んでゆくまでの短い一生などというものには何の値打も価値も見出せぬのかもしれぬ。だが、人間とは、たとえその短い一生のあいだに、お前たちからみれば何ひとつなしとげ得ずとも、逆に、お前たちのように巨大であったり、集合生命体になることが出来ぬからこそ、ひとりひとりの小さな夢や約束や未来やーー愛情やにくしみや、そうしたひとりひとりのささやかないのちを燃やし、それをときに世界のために使うことさえも出来るものなのだ。・・・一人一人、まったく別々の存在であり、あるものは賢く、あるものはおろかであり、あるものは醜く、あるものは美しく、あるものは八百年もの生を魔道によって得、あるものはまだ幼い子供のうちに死なねばならずーーそのすべてのおおいなる不条理、不平等、それを摂理として受け入れたとき、それは人間にとって、お前たちには決して理解できぬ最大の力となったのだ。--無力なること、人の子の子の無力、それこそがな」
(「グイン・サーガ」92巻 P36)
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漫画「ベルセルク」好きにはたまらないんじゃないかと思う。
作者は、晩年、癌で苦しみを味わう中、それでも書き続けた。
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秋口から冬にかけてはほんと具合悪かったです。腹痛、内臓痛に背中痛に腰痛、次から次へと、ころげまわったり救急車呼ぶほどじゃないんだけれども、眠れなかったりじっとしていられない程度の、つまり一番始末がわるい程度の痛みに見舞われ、鎮痛剤もなかなかきかなかったり、きいたらこんどは眠れなくなってしまって不眠症で苦しんだりーー半年続けてきた抗ガン剤がいよいよ相当からだに毒をためこんできたらしく、休薬期間になってもものが食べられず、体重は落ちる一方、かろうじて口に入るのは最初は蒸しパン、それから焼き菓子だけで、夜中に「なんでこんなものを食べなくちゃいけないんだろう」と泣きながら焼き菓子を口にお茶で流し込んで吐いてしまったりとかしていました。お米とか、お粥とか、そういうものが匂いさえ駄目になってしまったのが、御飯好きの私にはかなりの衝撃でしたね。徐々にようやく治っていって、十二月の末に、白菜のおしんこと海苔で白いご飯が食べられたときの感激ったらありませんでした。大袈裟にいうなら、手術が無事終わって退院したときよりもさえ感激したくらいです。
・・・自分自身も「生きて」この年明けにたどりつくことができただけで、「よかったなあ」という気分です。二〇一〇年が、二〇一一年が私にくるかどうかは、これはもうヤーンの決めること。もう何も考えずに、ただ、ちょっとでも沢山グインを先に進めておきたいなと思います。やっといろいろな下地がすべて終わって、まさにこれからが本当の意味での「三国志のはじまり」だと思いますから。
(「グイン・サーガ」125巻 作者あとがき P301)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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とにかく「文字にして自分の外に出すこと」への妄執、というものだけが私を突き動かしてます
(「グイン・サーガ」95巻 作者あとがき P309)
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栗本薫という稀有な才能に敬意を表したい。