沖縄に泥を塗った翁長沖縄県知事 | 熱党のブログ

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沖縄県の6月23日は「慰霊の日」であり、学校や官公庁なども休みとなる。

「慰霊の日」は、過去の戦争で沖縄の地上戦が終わった日であり、沖縄県にとっての実質上の終戦記念日である。

この日には毎年、糸満市摩文仁の平和祈念公園にて県と県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が行われており、総理大臣、県知事はもちろん、数名の大臣、遺族会、米軍関係者、自衛隊関係者まで多くの方が参列し献花を行う。

そして、総理大臣、県知事、遺族会などの代表の挨拶もある。

この挨拶に関しては、基本的に政治思想を打ち出すことはないのが通例であり、常識的に考えてもそれが戦没者への最低限の礼儀だろう。

前仲井真知事までは、左派系右派系のどちらの知事であっても、現実的な現在進行中の政治問題の発言は行われてこなかった。

しかし、翁長知事は昨年の慰霊の日の挨拶で、「(辺野古の)新基地建設は反対」と明確に打ち出した。

このことは、昨年、沖縄の県内の報道でも大きく取り上げられた。

しかし、翁長知事を支持している、沖縄の新聞2紙や沖縄のテレビ局も取り上げはしたものの、批判はなく、新聞2紙などは絶賛するほどであった。

そして今年2017年も、時事問題を含む政治的内容を含む挨拶であった。

また、遺族会代表の挨拶も同じような内容が含まれていたことは非常に残念である。

 

翁長知事宣言文全文はこちら

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170623-00000129-mai-pol

 

 

 

今年の翁長知事の挨拶の中には、先日死去した大田前知事の功績などにも触れていたが、翁長知事は大田知事の掲げていたものに泥を塗っていることに、ご本人は気づいていないのか?

大田昌秀元知事は現職時代に、この平和祈念公園に「平和の礎」を建立している。

「平和の礎」は、兵士、民間人、日本人、外国人関係なく全ての戦没者の名前が刻まれ、今でも毎年、数十名の名前が新たに刻まれ続けている。

なぜ大田知事は平和の礎を建立したのか。

それは、宗教や政治などの思想信条、人種に関係なく、全ての戦没者を追悼し、また全ての人がいつでも参拝できるようにとの思いで建立したのだ。

これは、「沖縄全戦没者追悼式」でも同じである。また、毎年修正記念日に武道館で行われる戦没者追悼式や広島、長崎での追悼式でも同じで、そこに政治的イデオロギーを持ち込むことは、非常識であり、戦没者に対しての最大の侮辱でもある。

広島にオバマ大統領が参列したのは、この全ての人に開かれた追悼式であるからなのだ。

 

沖縄県の中にも様々な考えの人がいる。

しかしこの日だけは、それらの政治や思想的イデオロギーを一切抜きにして、追悼するのが本来の姿であり、それであってこそ、戦没者を追悼できるものである。

そして、沖縄県民が平和とは何か、戦争とは何だったのか、戦争を繰り返さないために何をすべきなのかを、個々人が考える日でもあるはずである。

そこに、時事的な政治問題を挨拶や宣言文に盛り込むということは、戦没者を政治利用していることとなり、繰り返すが戦没者への最大の侮辱でもある。

翁長知事は沖縄県民が長年守り続けてきた、平和を念う気持ちに泥を塗ってしまったのである。

 

 

沖縄のマスコミをはじめ左派系の方々は、翁長知事の姿勢を支持している人も多いと思うが、今回の翁長知事の政治利用によって、今後、もし保守系の知事となった場合、今の自民党の立場で「辺野古の工事は粛々と進める」などの発言が出てもなんら問題がないという前例を作ってしまったのだ。

そして、県が主催の追悼式で政治的なものが許されるのであれば、極端なことを言えば、今の政治姿勢であれば、翁長知事の基地問題に賛同していない、政府や県議会野党(自公)自衛隊や米軍関係者を出席させないということも可能にしてしまえる可能性も出てきた。反対に保守の知事と保守系が与党であれば、全ての左派系の政治家もマスコミもシャットアウトすることもできるようになる。

これでは、戦没者に対しても沖縄県民にとっても非常に不幸である。

 

 

慰霊の日の追悼式は、沖縄県民にとって、とても重要な日である、この重要な日を忘れないためにも沖縄県も政府も、沖縄県民や戦没者に対して最大限の配慮をし、あくまで6月23日の主役は県民と戦没者であることを前提に式典が行われている。

そこに、政治的な側面を持ち込んでしまった翁長知事は単純に批判する気持ちより、このような前例を作ってしまったことへの悲しみの方が大きい。

このような式典には、沖縄だけではなく、広島や長崎でも、政治的思想を強くもった方が、総理や知事の挨拶中にヤジを飛ばす人がいる。

しかし、その姿は非常に哀れであり、悲しい気持ちになる。

それは、それほど神聖なものであるからだ。全ての戦没者と全ての遺族に対して最大限の配慮を全ての人が行っているからである。

翁長知事の挨拶は、そのヤジと同等と言っても良いだろう。

 

翁長知事は辺野古埋め立て反対の立場で知事となった。

今後もあらゆる手段で辺野古の工事を進める政府に対抗していくだろう。それは、沖縄県知事という権力と政府という権力との戦いである。

今の時代であるから、政治上の争いは司法という手段であったり、デモという手段で戦っているが、時代が違えば殺し合いの戦争と同じなのだ。

この争いを、鎮魂の場には持ち込んでいただきたくない。この気持ちに自分が保守であることは関係ない。

6月23日に関しては、昨日まで争っていた者同士、明日からまた争う相手であっても、お互いの鎮魂の気持ちを尊重すれば、争いなど持ち込むことはできない。

単純な話だが、ここでも多々批判している、沖縄平和運動センターの山城議長は、数年前にガンで闘病されたことがある。しかし、その時は保守系の方々も、ネット上で多くの見舞いの言葉を発していた。山城議長の政治的思想は批判しても、彼個人の心境を考えれば、その時に彼を批判するなど誰もできない。

人とはそんなものだろうと思う。

翁長知事が鎮魂の場で、政治的争いを持ち込んだということは、沖縄県民ひとりひとりに対しての配慮がないということであり、沖縄県民のことなど真剣に考えていない方なのかもしれない。

 

 

 

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