「もののあわれを知る」とは、マニ教的では?
たまたま、小林秀雄の『本居宣長』を見つけて、ふとんの中で、拾い読みした。
引用されている本居宣長の文章は、気持ち悪いのである。
相当な曲者である。
私は、漢心(からごころ)を批判し、大和心を説く宣長は、狭量なナショナリズムの提唱者と感じ、反発してきたのである。
しかし、ふと視点が変わった。
「もののあわれ」ないし「もののあわれを知る」とは、実は、マニ教的普遍的視点ではないのかということである。
「大和」に「こころ」を限定している点で狭量なナショナリズムがある。しかし、それをとり払ってしまえば、「こころ」の普遍主義ではないかと思ったのである。
今の勘では、宣長は、母権文化を父権文化の枠に限定して説いているのではいうことである。
引用されている本居宣長の文章は、気持ち悪いのである。
相当な曲者である。
私は、漢心(からごころ)を批判し、大和心を説く宣長は、狭量なナショナリズムの提唱者と感じ、反発してきたのである。
しかし、ふと視点が変わった。
「もののあわれ」ないし「もののあわれを知る」とは、実は、マニ教的普遍的視点ではないのかということである。
「大和」に「こころ」を限定している点で狭量なナショナリズムがある。しかし、それをとり払ってしまえば、「こころ」の普遍主義ではないかと思ったのである。
今の勘では、宣長は、母権文化を父権文化の枠に限定して説いているのではいうことである。
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