太陰イデア論(太陰プラトニズム):理論名称について:不連続という言葉を外す | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

太陰イデア論(太陰プラトニズム):理論名称について:不連続という言葉を外す

理論名称が頻繁に変化しているが、どうやら、不連続は外すことができそうである。
 何故なら、太陰を原点にしたとき、そこには、対立する陽が存在しないからである。つまり、例えば、陰と陽が初めから存在していて、その関係が問題になるとき、両者の不連続性を考えるのは、妥当である。
 しかし、初めは太陰、陰しかないのであるから、連続性、不連続性の問題は生じないと思う。
 ただし、太陰から派生する陽であるが、それは連続であるのか、不連続であるのかは問題になろう。
 言い換えると、イデアと現象の関係である。それは、連続なのか不連続なのか、となる。
 これは、常識的に不連続である。何故なら、質が異なるからである。だから、太陰イデア論において、もはや、連続、不連続は問題にならないと言える。
 故に、理論名称は、不連続を外して、太陰イデア論、又は、太陰プラトニズムでいいことになる。
 不連続が問題になったのは、差異に対する同一性の志向性についてである。つまり、同一性が前提であるとき、連続性か不連続性かは問題になったのである。
 しかるに、今や、同一性ではなく、太陰という絶対的差異・他者であるイデアが問題になっているのであるから、もはや、連続か不連続性かの問題はないのであり、必然的に不連続であるから、もう不連続の言葉は不要なのである。

追記:不連続的差異論であるが、それは、ドゥルーズの差異が連続的であるのを批判することから生まれたものである。
 そういう文脈ならば、不連続性の概念は生きている。
しかし、イデアと現象との関係の場合は、そもそも連続性はありえないのでないだろうか。なぜなら、イデアが本体であり、現象は仮象であるからである。
 それを考えれば、太陰をイデアと見るので、やはり、不連続の用語は不要である。