感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iは凹iと共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iは凹iと共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について

以下の生成門氏の「凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置」(強調はResurrectionによる)は、D. H. ロレンスの感覚的絶対的体験を解明するものだと直観した。
 私はこれまで、ロレンスのその意味がよくわからなかったのである。確かに、生成門氏のように捉えれば、明晰である。
 また、それで、「わたし」の至高性であるともロレンスが言っていたことも理解できる。
 しかしながら、ロレンスはそれを感覚の「闇」と表現しているのである。これが謎である。
 少し説明すれば、ロレンスの王冠哲学は、ライオンとユニコーンの相克的闘争に基づくが、前者が感覚で、後者が精神である。そして、それぞれ、闇と光なのである。
 今の私の説明は、凸iの至高体験、光の最高強度であるが、思うに、対象との一体感とは、実は他者凹iとの一体感であり、虚MPの差異共振ないし凹を指していると思えるのである。
 だから、最強度の凸iとはとりもなおさず、最強度の凹iとの一致を意味すると考えられる。だから、光=闇の至高体験ということになるだろう。
 つまり、対象との一体感には、凹iとの共振が入っているということである。また、それは、超越的存在(凹、マイナス1)的だるということである。
 そうならば、ロレンスのユニコーンの光、精神はどうなるなのだろうか。ロレンスはそこに、非自我を見て、他者だけの世界としている。つまり、凹iの世界である。
 しかし、そこには、もはや一体感はなく、外部の他者がいるのである。だから、それは、生成門氏の視点では、身体凸(+1)となると考えられる。だから、それは、現象光の光の世界と言えよう。
 つまり、ロレンスはユニコーンの光=精神で凸(+1)を意味しているのであり、凸iの光、あるいは、凸i*凹iの差異共振の超越光を意味しているのではないということになる。
 以上のようにざっと考えて、ロレンスの王冠哲学の長年の謎が解明されたように思う。獅子(感覚=闇)VS一角獣(精神=光)の絶対的矛盾の相克は、実は、凸iの最強度、最高度と凸(+1)との相克だったのである。そして、凸iの最強度とは、凹iを含むものであり、差異共振化、即非共振化であり、media point化であり、第三象限や凹を指すものと考えられる。
 また、さらに、ロレンスがキリスト教と近代科学を結びつけて考えていたこともこれで判明する。キリスト教は、王冠哲学では、一角獣=精神=光に当たるのであるが、それは凸(+1)の物質体なのである。だから、近代科学に結びつくことになるのである。(あるいは、ロレンスの光は生成門氏の視点から言えば、凸iの強度が弱化した位置のもの、凸の強度が増加した位置のものとも考えられる。)
 とまれ、整理すると、ロレンスの感覚=闇(ライオン)は、凸iの最強度による対象=他者との一体性(即非共振)に拠るものであり、最強度の凸iを指していることになる。つまり、最強度の光である。
 それに対して、ロレンスの精神=光(ユニコーン)は、最強度の光はなく、凸(プラス1)が強度も帯び出したときのものである。極限では、凸の最強度の場合である。物質主義である。
 それは、言い換えると、同一性化された凹iであり、物質となった他者のことである。これこそ、正に、近代科学=唯物科学の対象に相応しいと言える。
 結局、ロレンスの闇=超越光だったのである。そして、ロレンスの光=(現象光=)物質的対象・物質体であったのである。
 最後に強度の衰えた光であるが、それは、生成門氏の第一象限の光であり、ロレンスの光に通じるものと考えられるが、それと私が考える現象光との関係について考えてみたい。
 今のところ、二つの考え方がある。一つは、実MPにおいて、超越光が現象光=可視光へと変換されるというものである。これは、差異共振光=超越光とは絶対的に区別される。
 そうならば、この現象光=可視光がロレンスの光に当たると言えよう。(そして、ロレンスの闇は当然、超越光=差異共振光である。)
 もう一つの考えは、実MPにおいて、差異共振は凸i主導性によって作用しているので、凸iの光が現象光=可視光になるというものである。この場合、凸iの光が凹iの闇に衝突して、自己反射して、同一性の光=現象光=可視光を発出すると考えられる。
 この二つ目の場合であるが、現象光は、凸iの原光とは異なると見ないといけない。(先には、同一であると述べたが、訂正する。)
 つまり、凸iの光は差異的光であり、現象光のような同一性的光(物質的光)ではないと考えられるということである。換言すると、差異的光の凸iの光は、実MPで、同一性の光=物質的光=現象光=可視光に変換するということであり、二つの光の区別が為されなくてはならないということである。
 ここで飛躍して、二つ目の光について考察すると、これはこれまで、原光と呼んだが、純光と呼んでもいいだろう。そして、対の原闇であるが、それも純闇と呼ぶことができる。
 つまり、純光凸iは常に、対極の純闇凹iと極性を形成しているのであり、純光・即非・純闇、極言すれば、純光=純闇である。
 そして、繰り返すことになるが、生成門氏の凸iの至高の光は、正に、純光であり、それは、即、純闇との差異共振=超越光を意味すると考えられる。
 二つ目の考えに戻ると、凸iの純光が主導性となる場合とは逆に、凹iの純闇が主導性の場合がありえるだろう。その結果は当然、光ではなく、「闇」である。問題は、純闇が純光と同様に、自己反射するのか否かである。
 直観では、純闇は純光に当たり、自己反射はしないで、受け止めるのである。純光を受容するのである。つまり、差異共振化するのである。だから、純闇が主導的な場合は、純光が主導的な場合とは異なり、差異共振=超越光が生起して、第三象限に向うと考えられるのである。(やはり、これが、重力、dark matter, dark energyと関係しそうだ。)あるいは、精神の形成である。あるいは、マニ教の光の種子である。
 まとめると、二つ目の考えをとるとき、即ち、凸iの純光の主導性の場合と凹iの純闇の主導性の場合の二つの場合を想定するとき、おそらく、同時生起的に、同一性光=物質光=現象光=可視光と超越光=精神光=不可視光が発出するのである。
 以上全体を整理すると、一つ目の視点では、超越光と現象光の不連続性を認めて、実MPにおいては、現象光の発出を見ると考える。そのとき、純光凸iは現象光の裏面に隠れているだろう。
 二つ目の視点は、純光凸iの主導性のときは、同一性光=物質光=現象光=可視光が発出し、純闇凹iが主導的な場合は、差異共振光=超越光=精神光=不可視光が同時生起するということになる。
 二つの考えは、結局、一つに収斂するだろう。即ち、純光凸iが主導的な場合は、実MPから現象光が発生するが、現象光にいわば裏面に純光が隠れている。
 そして、純闇が主導的な場合は、実MPは、空となるが、差異共振が生起して、超越光=精神光=不可視光を内発するのである。
 結局、純光凸iと純闇凹iの主導性の変化であるが、基本的には、常時交替していると思われるが、ある時代には、純光が支配的であり、ある時代には純闇が支配的であると言えよう。前者が例えば、近代であり、父権的時代であり、後者は前近代や母権的時代と言えよう。
 結局、問題であった、純光凸iと現象光(実MPの光、又は、⇒凸の⇒の終点の光)は全く異なるということである。
 だから、超越光(超光)と純光と現象光の三種類の光があるということになるのである。それは既述したことに合致する。
 

参考:

[805] 人間は再現性の足りない部分を想像力で補う


From: 生成門
人間は再現性の足りない部分を想像力で補う
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

45度の位置の基準を示そうとしてきたのですが「乾燥したワカメは蘇る」、「外が内になる」、「絶対位置はない」という探求の結果、なんとも頼りのない「曖昧なノンフィクション」という結論になってしまいました。

「写真の認識を位置づける」「写真は自己を表出させる」「プロの写真家の自己表出」「写真も表現された内容で位置が変わる」では、第1象限の特徴を浮き彫りにしました。

気になるのは、「曖昧なノンフィクション」という中間の位置の問題です。もっとましな基準の示し方はないのでしょうか。

第1象限は「私」の認識です。

凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置から、次第に、言語の認識になると光の強度が弱くなって自己表出が出てきます。自己表出の最大の位置は+1であり、物質化(現象)です。

どんな認識も固定されることはないので、凸iから+1移動したように、その逆の+1から凸iへ移動することもあるでしょう。又、他の象限に飛び火することもあるでしょう。今は第1象限を中心に探求しています。その第1象限の探求も終わりに近づいてきています。

第1象限の探求を終わりにするためには、やはりなんと言っても中間の認識の位置を極めなければなりません。

中間とは強度が(0.7,0.7)の位置です。

光の強度:100%とは光による虚軸(凸i)であり、陽の精神性・関心度最高・視線強度最高・対象との完全一体感、無言語・感動と至高の無距離と無時間の 4次元世界を示すバロメータでしたが、それが右にシフトして中間(0.7)になると、光の強度が下がった分、身体性の強度が上がってきて、強度が (0.7,0.7)で釣り合います。

身体性の強度:100%とは外部世界と繋ぐ出入り口でもあり、実軸(+1)であり、対象再現性最高・自己表出度最高・対象との完全分離、言語による表現、距離と時間の3次元の現実、日常の物質世界(ノンフィクション)を示すバロメータです。

第1象限の認識を極めるためには、凸iでもなく+1でもなくその中間を極めることが必要でしょう。その中間を象徴的に「曖昧なノンフィクション」という言い方をしたのですが、言語による表現の特徴をそう認識したものです。

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