PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論 | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論

これについては、以前比較論を行った。そして、今でもそれはほぼ有効だと思う。
 ただし、直観的になにか重要な点で異なると感じるので、それを簡単に記したい。
 端的に言えば、後者は直観学であり、近代科学を批判していることである。言い換えると、シュタイナーにとって科学とは、近代科学=物質科学であり、量子力学を知らなかったので、量子論と直観がPS理論におけるように相関することを知らなかったと言えよう。
 シュタイナー霊学にとり、修行は基本的実践項目であるが、PS理論は修行を説かないのである。
 だから、後者はよりグノーシス(霊知)的と言えよう。もっとも、修行に私見では意味を認めないわけではない。
 ところで、今の時点で問題に思える点を述べたい。それは、精神と「量子」の問題である。
 私は精神振動と「量子」とを同一的に先には捉えた。つまり、高振動が精神的で、低振動が物質的と捉えた。
 しかし、これでは単に量的ではないかという直観があるので、問題に思うのである。
 もっとも、私は精神振動は倍音的ではないかとも感じているのである。例えば、太陽光は、物質光にはない倍音的振動をもっているのではないか思ってみるのである。
 しかし、それでもやはり、量的ではないだろうかという疑問がある。
 今、思い浮かべたのは、以前述べた区別である。即ち、いわゆる、量子とは、media pointの実軸で捉えられた「精神子」であり、「精神子」が虚軸に存するものであるということである。だから、太陽の光とは本来は「精神子」であり、それが、現象界においては、 実軸的「精神子」になっているというように思われる。
 そして、「精神子」とは本来、第三象限に属するものであり、差異共振状態である。
 どうもこの説明の方が高振動と低振動の区別よりいいと思われる。
 つまり、量子力学とは、根本的には、精神子力学であるが、現段階では、精神子の実軸的観測を理論化しているということになるのである。
 そして、だから、ニュートリノが超光速ということになるのである。
 しかし、精神子=「光(超越光=超光)」は物質的には無限速(「観念的同時」)であると考えられる。
 ということで、以前の考えにもどったことになる。だから、いわゆる、量子とは精神子をmedia pointの実軸、MP2で観測したものということである。量子論は半精神半物質科学であるということである。
 だから、PS理論こそ、トランス量子論、精神子力学と考えられるのである。それは、また、トランス霊学とも言えそうである。
 そして、鈴木大拙の即非の論理は精神子の論理であるし、D. H. ロレンスの文学・哲学は精神子の文学・哲学であるし、モーツァルトの音楽は精神子の音楽であると言える。
 ならば、PS理論は以前述べたように超量子力学である。