二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight | Resurrection : 復活の森:ヤポネシア、夜明けと目覚めの光復:GP陰陽哲理学Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience

二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight

ヴィジョン(直観、心的イメージ)は普通、一つ、一重と捉えられているだろう。
 しかし、既述からわかるように、光と闇の二つの「光」があり、また、交差がある。だから、少なくとも三重である(cf. 三位一体、三つ巴、三女神、他)。
 今は簡単に指摘するに留めるが、光のヴィジョンだけでは、物質世界に留まってしまい、唯物論的になってしまうのである。
 光は闇に、謂わば、裏打ちされているのである。しかしながら、近代は光のみを追求して、闇を忘却してしまったのである。D. H. ロレンスが述べていた通りである。
 そう、闇のヴィジョンがある。それは本当の直観ではないだろうか。光のヴィジョンは知覚・感覚的イメージであるのに対して、闇のヴィジョンは不可視の世界の「イメージ」だと思う。あるいは、心、魂の世界のイメージである。
 そう、直観というとき、光の直観と闇の直観があるのであるが、前者は外界的直観であり、後者は内界的直観であり、深いもの、本質的なものは後者であると考えられる。換言すると、前者は物質的直観であり、後者は精神的直観である。
 カント哲学の直観はまったく前者のみであり、後者が忘却されているだろう。
 問題は、両者を肯定することである。啓蒙主義は前者を求め、ロマン主義は後者を求めたが、それぞれ、排他的であったために一面的になったと考えられる。
 とまれ、両者は矛盾的力学をもたらすのであり、近代的人間はこれに耐えられなかったのである。
 既述したように、相互浸透があるため、光は闇を志向し、闇は光を志向するのであり、結局、知的魂は第二象限と第三象限を志向すると思われる。
 ゲーテ/シュタイナーの精神学は第二象限を経由した第三象限への志向であると思われる。実に知的なのである。
 それに対して、D. H. ロレンスは直接、第三象限の闇を志向したと考えられる。そのため、光に対する反動性が生じることになったと考えられる。ロレンスの身体への執着はその意味合いがあるだろう。また、父権と母権の混乱もそれに拠るだろう。
 とまれ、今や、闇のヴィジョンを取り戻す必要があるのである。魂、精神のヴィジョンであり、それが、政治や経済も賦活するのである。
 どうも、閃きを受けて、すぐ書かなかったので、論点が復習的になっている。