この秋、猫崎町にひとつの大きな出来事がありました。
猫崎ペットクリニックが、11月末をもって本院に統合され、閉院することになったのです。
閉院を知らせるハガキが郵送されてから、町の中はちょっとした騒ぎになりました。
「急に閉院なんて。どうしよう?どこへ行けば良いだろう?」と、ねこパト中、あちこちから相談を持ちかけられました。
都心ですから動物病院は過当競争です。猫崎町にも、他にも優秀な動物病院が複数あります。
「あちらに行かれてはどうですか? 少し遠くなりますけど、キャリーに入れて自転車で行けば楽ですよ。
私のは電動自転車ですから、いつでもお手伝いします。
長患いの持病があっても、初診で検査をすれば状態はわかるでしょう。心配は無用だと思いますよ」などと、
病院の回し者みたいに、あちこちで転院のアドバイスをする羽目になりました。
でも本当は、閉院で一番打撃を受けたのは、私自身だったように思います。
長年のパートナーを失ったような、何とも言えない寂しさがしみじみと押し寄せていたのに、
他の人の対応に手一杯で、言葉にする余裕を見失っていたのです。
この6年間、猫崎町のあちこちに小さな地域猫の現場を作ってきましたが、
猫崎ペットクリニックこそ、私の活動のベースキャンプであり、何にも代えがたい私の相棒だったのです。
2013年5月に亡くなった猫崎公園のぶーちゃん。
ぶーちゃんは2010年に右目を悪くして、男性ばかり3人、それそれに病院へ通院させていたことが後からわかった。
そのうちの2人は猫崎ペットクリニックへ連れて行っていたので、診断を聞きに行って以来交流が始まった。
ぶーちゃんの右眼は失明。でも処方された目薬を毎日さしてくれる人がおり(公園仲間のはっちゃん)、
調子が悪い時は何度か通院させて、処置してもらった。
そのおかげで、ぶーちゃんはさらに3年、元気で暮らすことができた。
2009年に横浜から東京へ移り住んだ時、私はまず、野良猫を連れて行ける病院を探しました。
「野良猫の不妊去勢手術? いいですよ、ただし1週間後に抜糸に連れて来て下さいね」なんて言うような病院は、
暗に、野良猫はお断り と言っているのと同じです。
横浜時代は、こんな調子の動物病院が多くて、ずいぶん苦労したものでした。
現在の愛護事情に関心があり、機会さえあれば獣医としてのスキルで自分も貢献したいと思っている、若くて、柔軟な考えの獣医さん。
私が探して居たのは、そういう獣医さんであり、病院施設でした。
そういうパートナーが居てくれれば、この猫崎町の野良猫事情を大きく変えられるはずだと、最初から考えていたのです。
ある日、ねこパトの途中に大通りの一角に小さな動物病院を見つけました。
こんなところに動物病院があったんだ でも、患者さんが出入りしているのを、一度も見たことがありません。
恐る恐るドアを開けると、白衣を着た、目元の涼し気な若い女性が対応してくれました。
「お訪ねしますが、こちらでは野良猫の不妊去勢手術はして頂けますか?区の助成枠の対象病院でしょうか?」
「こちらはK動物病院の分院で、私が分院長を務めています。
本院は獣医師会に所属していないので、助成枠の対象病院ではないのですよ」
「では、新たに対象病院として名乗りを上げて頂くことはできないでしょうか?
この町も野良猫が多くて、こちらにお願いできれば、とても助かるのです」
「本院の意向を聞いてみますから、少し待って貰えますか?」
クールビューティは、その日のうちに本院に聞いてくれたようで、すぐに返事が貰えました。
「残念ですが、難しいようです。
でも、野良猫ちゃんの治療ならこちらでもお引き受けしますよ。私がお役に立てるのでしたら、いつでもどうぞ」
これが、藤孝先生(ふじたかせんせい・仮名)との出会いでした。
2010年のことで、藤孝先生が猫崎ペットクリニック院長に赴任して、ちょうど1年経っていたそうです。
私と藤孝先生は、奇しくも同じ2009年に、この猫崎町へやって来ていたのでした。
アトム。2010年秋に不妊手術したお萩には4匹の子猫がおり、
いずれ子猫全頭に手術をするために、
私はファミリーに餌付けして公園に移動させた。
4匹のうち、アトムとアンリは里親募集をし、幸せに暮らしている。
保護出しのための一次検査を藤孝先生にお願いした。
処置の間アンリが逃げ出して診察室の物陰に籠城してしまい、
泡を喰ったのを思い出す(→テーマ「お萩と4匹の子猫たち
」)
猫崎町には実にたくさんの野良猫が住み付いていて、私はねこパトを繰り返して彼らの生態を探りました。
土地柄なのでしょう、この町に住み付いた野良猫の後ろには必ず、密かに手を差し伸べて命を支えてくれる人がいました。
「野良猫1匹を辿って行くと、いろんな人が関わっている。それを繋げていくと、町がそのまま、形のないシェルターになるよ」
日々是ねこパトの冒頭に掲げているこのフレーズは、
足で稼ぎ、1匹の野良猫を支えている人を探しあて、同じ猫を気にかけている人同志を繋ぎ合わせていけば、
そこに無形の野良猫シェルターが出来るかもしれないという、私が作り上げた夢のような構想であり、実感だったのです。
背後に猫崎公園、並びはウシ子のいた猫だまり。大通りを渡った向こうはマルメロ通り、教会通り。その先に5丁目駐車場の現場…。
私のねこパトエリアのど真ん中に位置する小さな動物病院、猫崎ペットクリニックは、
こうして、猫崎町の野良猫事情を大きく変えるベースキャンプとなっていったのでした。
猫崎公園の縞ちゃん(上)とお兄ちゃんの兄妹。
2匹は半年を隔てて、おばあちゃんご一家に家猫として迎えられ、とても仲良く暮らしている。
下は、風邪を引いたお兄ちゃんを捕獲して治療してもらっている写真。そのままお届けすることになり、
おばあちゃん宅の猫部屋に病院スタッフ3人も駆けつけてくれて、総勢8人で2匹の感動の再会を見届けた。
(→テーマ「お兄ちゃんの公園卒業 」)
実は、2匹には3匹目の兄弟がいて、連れ帰った人がいたことが後からわかった。
閉院間際のクリニックでその方と再会。その子猫は、ある猫に執拗にいじめられており、見かねて引き取ったとのこと。
「尻尾の無い猫がね、首根っこをガシっと抑えて、食べさせないのよ」と言うので、
「もしかして…」とトミ黒の写真を見せると、「あ~これこれ!この猫がうちの子を苛めてたのよ!」ですって
後ろで藤孝先生が笑いを噛み殺していました
不妊・去勢手術をサポートしご近所関係を整理して、地域に猫を見守る体制を作ってしまうと、
今度は、シニアの猫たちや、重篤な病気を発症した猫たちの医療ケアが必要になってきました。
私は藤孝先生を頼り、藤孝先生はその都度、私の要求に精一杯応えてくれました。
野良猫の治療には、飼い猫とは違う独特の制限があります。
そのひとつは、2度目の通院はないかもしれない(捕獲できない)こと。ふたつ目は、治療後、野に返すことが前提ということでした。
保護するつもりがない以上、「血液検査しても意味がない」と割り切る必要もありました。
その代わり、その場でできる限りの処置をしてほしい。こちらは素人という免罪符がありますから、はっきり求め、粘ります。
すると、そのお題にどう応えるか? 藤孝先生は頭を捻って道を探るのです。
基本は、QOLを少しでも上げるための対症療法です。
そして、外でしか生きる場所のない猫たちの尊厳を尊重し、「生き切る」ことを、最大の眼目とする。
これが私たちの基本姿勢でした。
シニア猫にとっては、口内炎のケアは必須です。無麻酔での抜歯は痛々しいものですが、
大抵はその日のうちにワシワシと食べるようになります。そうなれば一安心。
リリース後は、丁寧に観察しながら薬剤を加減します。
抗炎症効果絶大なステロイドも、使い方を間違えれば自己免疫を阻害します。そういう「塩梅」を、藤孝先生に何度も教えて貰いました。
時に、藤孝先生が猫崎公園へ様子を見に来てくれることもあり、今後の方針を立ち話したものでした。
「野良猫の通院は、一発勝負」 という緊迫感が私にはいつもあり、
意外にも、藤孝先生が私以上にそのツボをきっちり抑えてくれたので、私たちの意思疎通はとても楽でした。
パルがぐったりしているとマルメロから通報を受け、急ぎクリニックへ運んだ
胸の中に大量の膿が溜まっていて、呼吸ができず食べ物も通らず、気づくのが遅れていたらパルは助からなかっただろう。
外科医・藤孝先生は胸にドレーンを入れ、排膿処置をしてくれたが、膿胸を甘く見ることはできず、
完治までひと月は掛かると言われた。結果、ちょうど1ヶ月でパルはマルメロ通りへの生還を果たした。
この時のパルを支える人間模様は、実にドラマチックだった。
マルメロ通りに、地域猫の現場を作って良かったと、強く感じた(→テーマ「膿胸になった飼い主のいない猫 」)。
しかし、猫崎ペットクリニックには最大の難点がありました。入院設備が無いのです。
ネグレクトする飼い主を見切って家出した花ちゃんは、自ら、私たちの地域猫になり、
公園近くのお宅の玄関前に置かせてもらったハウスに住み付きました。
そのハウスが、入院設備と同じ役目を果たしてくれました。そこから何度も通院させ、私たちに看取られながら、
花ちゃんはハウスの中で、とても穏やかに旅立ちました。(→テーマ「飼い猫をやめた猫 」)
マルメロ通りの若い猫・パルは、膿胸という重篤な状態から間一髪、藤孝先生に命を救われました。
1日2回胸腔内を洗浄する処置が長期で必要で、胸にドレーンを装着していましたから、リリースはもちろんできません。
この困った事態に、マルメロ通りの住民のひとりが、夜だけパルを預かりましょうと申し出てくれたのです。
私はマルメロ通りにチラシを撒き、パルを可愛がって下さっていた地域の皆さんに医療費のカンパを持ちかけました。
1日1万円掛かると言われた治療費のほぼ全額は、このカンパで賄うことができました。
「野に置いたままでは、できない」と考えるのではなく、「どうすればできるか?」だけを、私は必死に考え実行しました。
それを可能にするのはたったひとつ、地域の皆さんの力を借りるしかないといつも考えていたのです。
そして私にとっては今や、藤孝先生もまた、紛れもなく地域のひとり、欠くべからざる重要人物でした。
彼女が懸命になってくれるのだから、必ず私が、段取りしてみせる…。
その思いが、毎回事件が起こるたびに、火事場のバカ力のように私を動かしました。
そうやって、1匹の猫を地域の皆さんと一緒に助け、あるいは送り出して、「お疲れ様でした」と笑い合えれば、
すべての苦労が爽やかに報われました。
今思い出すと、その日々はまるで、私の青春時代そのもののようでした。
でも、多分藤孝先生にとっても、私との協働戦線は刺激的だったに違いありません。
膿胸のパルが日中クリニックにいる間、マルメロ通りの皆さんが代わる代わるやって来て、パルに面会したそうです。
「sakki さんが言ってる”地域猫”というのは、こういうことなのか」と、実感したに違いありません。
飼い主とペット、その一対一の関係に介在する獣医さんの仕事から逸脱して、
本当の意味で「地域密着の動物病院」になれたと、感じてくれたのではないでしょうか?
私が探し当てた「若くて、柔軟な考え方の獣医さん」は、こうして猫崎町のために尽くしてくれました。
この6年間が彼女にとって何がしかの学びの時間であったとしたら、それは将来、彼女のキャリアに、必ず影響を与えるでしょう。
それが、私から藤孝先生へ贈る、ほんのささやかなお礼です。受け取って貰えていれば、私は幸せです。
花ちゃん。ネグレクトしていた飼い主はドアに猫窓を開けていたが、花ちゃんは家に帰らず私たちを頼った。
すでに、カウントダウンは始まっていて、止めることはできなかった。
何度も通院させ、そのたびに藤孝先生と、尊厳ある死までを、いかに支えるか? 意見を交わした。
QOLという言葉を噛みしめながら、死に行くものに何がしてやれるか? みんなで一緒になって考えた
12月8日、朝。
猫崎公園でデリをしている所へ藤孝先生が寄ってくれて、クリニックの片付けも今日で終わりますと教えてくれました。
夕方、お別れをするためにクリニックを訪ねました。
別れ際、スタッフさんのひとりが感極まった様子で目で訴えてきたので、私は思わず彼女をハグしました。
藤孝先生とも、固く握手しました。
私から見れば妹たち、ひょっとすると娘の世代のような若い女性たちだけで、この病院の経営を何年も支えて来たのです。
不安もプレッシャーもあったことでしょう。
「皆さん、本当によく頑張ったね。長いことお疲れ様でした。明日からの再出発が、どうか、うまく行きますように。
そして願わくば、いつかこの場所に動物病院を再建できますように。
そんな夢を実現できるまで、獣医さんとして、スタッフさんとして、キャリアを磨いて下さい」 と言いました。
この日を最後に、クリニックのシャッターが上がることはなくなりました。
さようなら、猫崎ペットクリニック。 いままでお世話になりました。 ありがとうございました。
町の猫たちと、猫繋がりの皆さんのために、無我夢中で奔走した日々に区切りを付けたような、
なんとも表現しがたい思いに捉われながら、お別れをしたのでした。