第三百二話 ある少女の朝 | ねこバナ。

第三百二話 ある少女の朝

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※ 第五十話   ヒロシマ
  第二百十六話 入道雲
  もどうぞ


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「はあっ、はあっ、はあ」

ひとりの少女が駆けていた。
三つ編みのおさげ髪を揺らせて、額の汗を拭いながら。

「遅れてもうた。どうしょ、どうしょ」

蒸し暑い朝の雑踏をかき分けて、するりするりと駆けていた。

「母ちゃんが早う髪編んでくれんけぇ、遅れてもうた」

滲んだ涙を汗と一緒に手の甲で拭って、甘ったれな少女は、必死に駆けた。
路面電車がチンチンと鐘を鳴らし、少女を追い越していった。

  *   *   *   *   *

空襲警報解除のあと、街は何時ものとおり騒がしかった。
土埃と油と汗の臭いが、雑踏のあいだに漂う。
じりじりと夏の太陽が街を照らす。
その中を、少女は駆けていた。

勤労奉仕の工場はとうに始まっている。
怖い顔をした兵隊さんに怒られるのが、少女はなにより怖かった。

「母ちゃんの馬鹿」

ぐずっと、少女は洟を啜った。

どすん

「おら、何処見て歩いとんじゃ」

男に怒鳴られ、少女は身を竦めた。

「ご、ごめんなさい」
「気ぃ付けぇ」

ぺこりと頭を下げ、少女はまた駆け出そうとした。
そうして、はたと気付いた。

「あっ、イリコが」

小さな布の鞄が開いて、中から物が飛び出していた。
何よりも先に、少女は道端にばらまかれたイリコを拾った。
そうしてハンケチに包み直し、丁寧に鞄に詰め直し、

「ふう」

と息をついた。

「トラのごはんじゃけえねぇ」

少女は、工場裏にいつもいる野良猫の姿を思い出し、ほんの少し、笑った。
そうして、

「ああ、急がんと」

我に返って、また雑踏の中を、駆けていった。

  *   *   *   *   *

どんがらがら、どんがらがら

大きな音がして、通り沿いの建物が崩れる。
男共の騒ぐ声が聞こえる。
少女はそれを横目で見ながら、駆けていた。

「はあっ、はあっ、はあ」

また兵隊さんに怒られる。
少女は泣きそうになりながら、駆けていた。

「はあっ、はあっ、はあ」

大きな銀行の建物を通り過ぎようとしたとき、

「みゃーう」

猫の鳴き声がして、少女はふいとその方を見た。

「あっ」

松葉杖を傍らに置いた、帰還兵と思しき男。
その傍らには、猫がいた。
黒い背中に黒い足。その足先だけが、染め抜いたように白かった。

猫はごろりと男の脇に寝転がり、男に向かって、その白い前足を、伸ばしている。

「ああ猫じゃ」

少女は笑った。

「かわいいのう」

怒られることも忘れて、駆けながら、笑った。

「うふふふふふ」

そうして、待ち合わせの交差点まで、全力で、駆けていったのだ。

  *   *   *   *   *

友は待っていた。
おかっぱ頭を揺らせて、少女に手を振った。
少女は駆けながら叫んだ。

「ミッちゃあん」
「おそいよーう」

「ミッちゃあん、あんね、あんねー」
「どしたーん」
「あんね、猫がね」
「なにー」
「くつしたはいた、ねこ」

少女は友に向かって手を伸ばした。
友の笑顔に向かって、

ちいさな手を。


そのとき


おおきな光が
はげしい熱が
ふたりを包んだ


少女は、友が、自分の伸ばした手が、

「みゃーう」

猫の鳴き声とともに、塵になっていくのを、見た。



一九四五(昭和二十)年八月六日、午前八時十五分の出来事である。



おしまい








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