第五十話 ヒロシマ | ねこバナ。

第五十話 ヒロシマ

「どっこらせ」

男は松葉杖を壁に立てかけ、石段に腰を下ろした。
「とっとと」
松葉杖はからんからんと音を立て、滑り落ちてしまった。
男は面倒臭そうに、手を伸ばして杖を引っ張り、足下に置いた。
そして、ふう、と溜息をついた。

警戒警報が解除されて約三十分。
非常時とはいえ、朝の賑わいは変わらない。
男は目を閉じた。
路面電車がチンチンと鐘を鳴らしながら走る音が聞こえる。

薄曇りの空を突き抜けて、夏の朝の太陽が、じりじりと肌を灼く。
暑い。汗がこめかみから顎へと流れる。しかし心地よい。
南方のジャングルで味わった地獄に比べれば、此処は天国だ。

「みゃう」

ふと男は足下に目を遣った。
黒と白の斑猫が、男の顔をじっと見て、座っている。
まるで白い靴下を履いたように、前足の先が白い。

「おう、おんし、洒落とるのう」

男は猫の鼻先に指を近づけた。
猫はくんくん、と匂いを嗅いで、舌なめずりをした。そして、
「みゃーう」
と鳴いた。

「すまんのう、わし、食い物持っとらんけぇ」

男は笑って、猫の頭を擦るように撫でた。
猫は目を細めてその感触を楽しんだ後、男が腰掛けている石段に登り、男のすぐ脇にごろんと寝ころんだ。
ちょうど男の身体が、猫の分だけ陰を作っている。
男は猫の仕草を眺めながら、呟いた。

「おんしより小さい猫が、わしん家にはおったけど、今はどうしちょるじゃろう」

どん、がらがらがら

遠くで、建物を壊す音が聞こえる。
モンペを履いた女学生がひとり、走りながら、男の目の前を通り過ぎてゆく。

「あんくらいの娘もおるけど、疎開先で元気にしちょるかのう」

猫は伸びをして、男の尻のあたりを、ぎゅうっと押した。

「ふふん、そうじゃの、わしも早う行っちゃらんといかん」

男はそう言うと、ポケットから吸いさしの煙草を取り出し、マッチで火をつけた。
男の口から、灰色の靄がゆっくりと立ち上る。

「じゃけえ、もう少し、もう少しだけ、此処で休ませてくれんかねえ」

夏の朝の、ざらついた空気に、靄が混ざって消えていくのを、男は眺めていた。



こおーん、こおーん


その向こうの空に、きらりと光るものが、見えたように、男には思えた。

「なんじゃろ」

「みゃう」



十秒後、男の視界は、白く弾けた。
摂氏四千度の熱線は、男と猫の陰を、石段の上に、灼き付けた。


一九四五(昭和二十)年八月六日、午前八時十五分の出来事である。



おしまい






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