第二百八十五話 糸紡ぐ猫(其四) | ねこバナ。

第二百八十五話 糸紡ぐ猫(其四)

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 第二百八十四話 糸紡ぐ猫(其三) 


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一九七三年四月十六日。

朝八時半きっかりに、ナカザワは村の宿まで私を迎えに来た。

「おはよう、先生」

にかっと白い歯を見せて笑う彼の姿は、昨日の陰惨な事件の影響を微塵も感じさせない。勿論私は、それが彼なりの優しさだと判っていたから、ややぎこちない笑顔を作って、彼のトラックの助手席に乗り込んだ。
彼が勢いよく運転席に飛び乗り、エンジンをスタートさせると、

「シンゴちゃん」

と、窓の外から彼を呼ぶ声がする。

「おお、サチぼんじゃねえか、どうしたい」
「あのさあ、シライトサワのミツさん、もう家に帰ったかねえ」
「えっ、いんや、俺ぁ知らねえけど」
「そうなん。あのさあ...あれ、その人は」

サチぼんと呼ばれたソバカスいっぱいの女性は、私を怪訝そうな眼で見る。

「ああ、この人は、東京から来た大学の先生。俺がシライトサワまで送ってくんだ、これから」
「そうなん...」
「あ、あの、私に構わず、どうぞ」

おずおずと私が促すと、その女性は少し小声になって、ナカザワにこう言った。

「ミツさん、昨日の夜に病院来たんよ。具合が悪いとかでさ、警察の人と一緒に来たんよ。何かあったんかね」
「へえ、俺ぁ知らねぇで。具合悪いってどうしたんだい」
「いやあたしも詳しくは知らないんだけどさ、ぐったりしちゃってさ。んで気になったんだけど、ほら去年手術したでしょうよ。その後の検査結果、ちゃんと届いてるんかね」
「なんだあ? なんのケンサだ?」
「そん時原因が不明だったもんで、手術の後東京の病院に検体送ったんだけどさ。毛髪とか組織とか。そしたら、身体によくないもんが溜まってるみたいなんよう」
「なにい、おいどうゆうことなんだそりゃ」

ナカザワは大きな声で、まるで抗議でもするかのように、その女性に掴みかかる。

「知らないよう。水がいけねえんじゃねえかって先生は言ってたけどさ。検査の結果は届いてるはずだし、診療所のお医者にも処方は出てるはずなんだけど...。ちゃんと水とか食べ物とか、気をつけてたんかね。暫く見てなかったから心配でさ。悪くなってないといいんだけどさ」
「...どういうこった、そりゃあ」
「とにかくさ、本人にちゃんと知らせてあげたほうがいいよう。あたしなんかが口出ししちゃいけないかなって思ってたけど、もし話がいってなかったらさ、可哀想でしょうよ」
「あ、ああ。判った。ちゃんと病院に連絡するように、俺からミツ姉さんには言っておくから」
「頼んだよ、じゃあね」

そうして女性は、足早にその場を去った。

「あのう、今のは...」
「サチぼんか? 街の大きな病院に勤めてんだよ。この時間にこんなとこにいるんだから、たぶん夜勤明けなんだろ」
「ああ...あの、街の病院って、ヤヘエさんが理事長の」
「そうさ。しっかし、なんでちゃんと言わねえかなあのジジイ。あん時だって、毎日通って、帰りのタクシーにまで一緒に乗っかって来たってのに」
「あん時って、去年の手術の時ですか」
「そうさ。いくら普段仲がそんなによくねえったって、親戚だかんなあ。世話くらい焼いてもバチは当たんねえべ。なのに、まったく抜けてやがる」

ナカザワは頬を膨らませ、勢いよくトラックを発進させた。彼はそれからしばらく、ヤヘエの悪口を大声で言い続けていた。

「あのう、ナカザワさん」
「なんだい」
「水とか食べ物とかって、今あの人がおっしゃってましたけど、あの谷で何か問題でも」
「いんや、随分前に、ほら水俣病が問題になった時にさ、一応保健所が検査に来たんさね。井戸水と川の水調べに。そん時に、ほんの少し水銀が見つかったんさ。シンシャとか言ってたっけな」

辰砂。赤い顔料として使われることもある、硫化水銀を主成分とした鉱物だ。それがあの谷にあるのだろうか。

「でもさ、そんなに問題になる量じゃなかったみたいよ。現に俺だって毎日井戸水飲んでっけど、どっこもおかしかねえかんね」
「そうですか。じゃあ、どうしてでしょうねえ、ミツさん」
「そんなに贅沢もしてねえと思うし...変なもんでも食わされてんのか? ったくロクなことしねえなカミヤの連中は」

ナカザワにとっては、ただの思いつきの言葉だったのかも知れないが。
私の思考に、それがべっとりと、こびりついた。

    *   *   *   *   *

「こんな汚ぇとこに、東京から学者先生だって。まあまあ」

腰の曲がったナカザワの祖母は、そう言いながら頭を下げ、私を出迎えた。
彼女はサクヤの家にいたツネよりも更に高齢で、今年八十五になるという。明治の初めからこの谷で暮らし、畑仕事と養蚕にその身を捧げて来たのだ。

「こんなドラ息子が送り迎えじゃ、うっとうしいでしょうよう先生」
「祖母ちゃん、ひでえなあ」
「だってあんた、いっつもなんだかわかんねえ歌ばっかりかけて。やっかましいったらありゃしねえんですよう先生」
「祖母ちゃんの昼寝の時間にはかけねえようにしてるべえ。先生だってジャニスは嫌いじゃねえべ。なあ先生」
「ええ、まあ」
「あんれまあ、東京の人ってのは、やっぱし変わってるんだいねえ」

ナカザワの祖母はそう言って、眼を丸くして私を見た。
茶を振る舞われるより先に、私は猫の言い伝えについて彼女に訊いた。それは大方、昨日ツネに教えて貰った内容と変わりなかった。

「では、終戦前の事件については」

これを聞き逃してはならない。私は自分でも驚くほどに身を乗り出し、彼女に迫った。

「やんだ先生、そんな、聞いても厭な気分になるだけだって」
「いえ、私は大丈夫です。もしお祖母さんに差し支えなければ、是非教えていただきたいのですけど」
「そっかい...余所の人にゃ、あんまし話したくねえんだけども」

彼女は俯いて、ひとつ溜息をつき、ゆっくりと語り始めた。

   *   *   *   *   *

戦争中は、こんな田舎町でも、やれ増産だの勤労奉仕だので、そりゃあ忙しかったんよ。おカイコよりも芋やらトウモロコシやらがもてはやされてさ。それでもシライトサワでは、細々おカイコを続けてた。昔から守って来たもんを絶やしちゃなんねえって。
先代の大奥様は、女だてらに、張り切ってらしたんですよう。婦人会の会長をしたり、疎開して来た軍隊の慰問に行ったりね。そんで宮司の旦那さんとの間に、十人子供をもうけて。ミツさんの他は皆男だったもんで、大きくなったら婿に出ちまったけんど。上の兄さんたちは、みいんな南方で死んじまってねえ、可哀想に。
ああそう、あれは昭和十九年の夏だったかね。えらく暑い日でさ、あたしゃ嫁と息子と一緒に、田んぼの草取りから帰って来たところだった。
すると、家から猫がさ、一匹の真っ黒な猫が、飛び出して来たんだよ。せっかく糸枠に巻き取った糸を、身体中に巻き付けてさ。
ぴょんぴょん、ぴょんぴょん、飛び跳ねながらね。
あたしゃびっくらして、猫を追いかけたんだけど、その猫、ダイドコの水瓶で水を飲んでさ。まるであたしらを馬鹿にするように。
まるで自分の身体に巻き付いた糸を、手で巻き取るように。

そうさ、糸でも紡ぐみたいにね。

踊りながら、谷を転げ落ちていったんだ。

あたしが呆気に取られている間に、嫁と息子は、水瓶の水を飲んだのさ。
そうしたら。
酷く吐いてねえ。苦しがってねえ。そのうち痙攣して、動かなくなっちまった。
怖ろしくなって、急いで医者を呼んだんだけど、医者も何がなんだか判らねえ。
二日の後にゃ、二人とも、死んじまったんだよ。
小さいこの子、シンゴを残してさ。可哀想にさ。

そのあと、川下の家でもふたり、死人が出たさ。
あれは確かに、猫の仕業に違いねえ。

ヤヘエさんは、ああ、今のヤヘエさんじゃねえよ、先代のことだけども。
谷の皆を集めてさ。猫が谷に入ったんなら、もうおしめえだって。みんな逃げるべえって、麓に下りるべえって、言ったんだけども。
サクヤの大奥様が言いなさるには、その邪気は払えるから心配すんなって。今までどおり住めるようって。
そんで大奥様と旦那様はさ、三日三晩、社殿に籠もって祈りなすってさ。そのあと、神社の裏手にある溜め池の水を、一気に谷に流してさ。
ほうら、これで大丈夫、と仰ったもんだ。ケガレは流された、ってね。

   *   *   *   *   *

血の気が引いた。
現実に、しかもそう遠くない昔に、人が死んでいる。猫のせいだと疑われて。

「あ、あのう、それは警察には届けたんですか」
「ああ、ヤヘエさん家が届けたってったけども、村の駐在が来て何か聞いていったっきりでね。どうせあんなの役に立つちゃあしないよ」
「例えば、その水瓶に、毒物とかそういうものが」
「そうさ。確かに入ってたに違いねえ。猫の奴が入れたんだねきっと。あたしゃ怖ろしいからさ。水瓶ごとぶっ壊して、谷川ん中に捨てっちまったんだよう。医者が言うには、何か混ざってるといけねえからって、息子夫婦の着物や、吐いたもんまで、きれいに拭ってねえ。麓の川原で焼いたんさね」

何か視点がずれているような気がする。
すべての悪が猫にいくように、操作されているような。

「そん時俺ぁ、神社の境内で、ミツ姉さんに遊んで貰ってたんだ。もし此処にいたら、俺も死んでたに違いねえよ」

と、ナカザワが沈痛な面持ちで言う。
私はここで、ヤヘエの家とサクヤの家の関係が気になった。

「お祖母さん、大奥様、つまり先代の宮司の奥様は、谷から皆さんが出て行こうとするのを、引き留めたんですね」
「ああ、そうだよ。邪気も祓ってくだすって、ありがてえこった」
「そして、今のヤヘエさんのお父様が、谷から下りようって呼びかけたんですね」
「そうさ。凄い剣幕でねえ。大奥様とも随分言い争いをしてたんだよう」

どうも気にかかる。一昨日もそうだったし、ナカザワの祖母の話もそうだが、結局猫の言い伝えに拘っているのは、谷の祭祀を司るサクヤ家ではなく、ヤヘエの家なのだ。この食い違いは一体何なのだろう。

「猫が怖ろしいものだという言い伝えは、お祖母さんが小さい頃からあったんですか」
「へ? ああそうだよ。あたしゃ明治二十一年の生まれだけどね。赤ん坊の頃から聞かされてたもんさ」
「実際に怖ろしいことがあったのは、その、昭和十九年の時だけですか」
「ええと、まあ、そうだねえ」
「この谷でなく、麓の村で猫を見たことはあったんですね」
「そりゃあねえ、麓じゃ、ネズミ除けに飼ってるとこがあるからねえ。でもあたしゃ怖くって怖くって、近づけなかったよう」
「宮司さんの家の方も、猫を怖がっていましたか」
「そりゃあ怖がってたでしょうよ。ああでも、大奥様は違ったかもしんないね。厳しいお顔をなすって、そんなものには負けない、なんて仰ってたからねえ」

やはりこの点は定かでない。ヤヘエの家に、何か秘密がありはしないか。

「ヤヘエさんのお家は、その頃から影響力が強かったんでしょうか。お金持ちとか、名が知れているとか」
「勿論さ。そん時も県会議員じゃなかったっけかな? 戦争中は、陸軍のお偉いさんとも仲良くしてたみたいでね。よく立派な軍服を着た人たちが、ぞろぞろヤヘエさん家に来ていたよ」
「じゃあ、古いお家なんですねえ、ヤヘエさんのところは」
「ああそうさ。サクヤの家を支えて来たんだと。もう何百年もね。まあ有難いことだわ」
「けっ、俺は嫌いだねあんな奴等」

ナカザワが祖母の言葉を遮って言う。

「シンゴ! 何罰当たりなことを」
「だってよう、奴等ばっかいい思いしてるじゃねえかよう。こっちゃ汗水垂らして働いてもよう、全部奴等に吸い上げられちまう」
「此処はそういうとこなんだから、仕方ねえってゆってるべ」
「こないだだってよう、勝手に俺ん家の畑の脇に穴開けやがってよう」

ナカザワは憎々しげに、手拭で床を叩く。

「穴、ですか」
「そうさ。作業してる男に訊いてみたら、なんかこの谷の下に埋まってるんだと。金になりそうなもんがさ。名前は忘れちまったけど、ええと何だったっけ。べん、べん...ああ駄目だ思い出せねえ」
「じゃあそのなんとかいう物の調査のために、穴を掘ってたんですね。それはヤヘエさんの指示だったと」
「ああ。おかげで、先祖代々の石垣が壊れちまってさ。ひでえもんだ」

堪らずにナカザワの祖母が声を張り上げる。

「これシンゴ! やめねえかい。ちゃんと考えがあってのことなんだろうよ」
「知るもんか。俺ぁ何と言われようと、あんな連中は信じねえぞ。麓に下りてみろよ。ろくな噂を聞かねえぞ奴等」
「いいかげんにしねえかいっ」
「ふんっ」

ぺしん、と手拭で床を払って、ナカザワは外に出て行ってしまった。

「すみませんねえ、あんなぶっきらぼうな男でえ」

祖母は頭を下げて謝るが、

「いいえ、どうぞお気になさらず。それより、辛いお話をさせてしまって、すみませんでした」
「はあ、何かの役に立つもんだか知れねえけど、ねえ」

そう言って彼女は笑い、私に熱い茶を勧めてくれた。

   *   *   *   *   *

ナカザワの祖母に礼を言って家から出ると、ナカザワが軒先で待っていて、

「んで、これから神社に行くんかい」

と訊く。

「ええ。いろいろ気に掛かることがあるので」
「そうかい」

彼は地面に視線を這わせていたが、やがて決心したように、私に言った。

「先生、あんたは信用出来そうだから、言うぞ」
「は、何をですか」
「昨日のカグラん時、拝殿で祝詞をあげていたのは、俺なんだ」
「...えっ」

一瞬、彼が何を言っているのか、飲み込めなかった。

「ミツ姉さんは、あすこには、いなかったんだよ」

そんな。

「そっ、それはどういうことですか」
「姉さんは、今年で祭が終わりだから、神社の裏の祠でお参りをしなきゃなんねえって、そう言ってさ。俺におんなじ衣裳を着せて、ああしてこうして、って教えてくれてさ。カグラが始まる丁度十分前に、社務所の裏口から出ていったんさ」
「じゃあ、ナカザワさんは、いつ頃から社務所にいらしたんですか」
「十時過ぎかな。裏口から入って、姉さんの部屋に入ってさ。それで衣裳着せて貰って、姉さんを見送ったあとそのまま待ってて、太鼓の音が鳴ったんで、出ていったんさ」
「それで、その後は」
「その後って...。紙に書いて貰った祝詞を、なるたけよく判らねえように、読んだってえか、唸ったな。浪曲みてえにさ。んでカグラが始まって...それが終わったら、ミツ姉さんが本殿のほうから出てくるって、そういうことになってたんだけど...」
「その前に、猫、ですか」
「そうさ。俺もビビっちまってよ。それをサトコちゃんが抱えて逃げたもんで、またビビっちまった。はあ、俺も情けねえ。んで、あんたが走っていっただろ、そのあとヤヘエとかジジイどもが追っかけて行ってさ。俺ぁその後に続くふりをして、急いで姉さんの部屋に入ってさ、着替えてじっとしてたんさ。騒ぎが収まるまで。んで、ミツ姉さんが裏の祠から戻って来たのを見計らって、窓から逃げ出したんさね」
「どうしてそんなことを...」
「だって、秘密だって言われてたんだもの、ミツ姉さんに。カグラが終わったら、姉さんからちゃんと説明があるから、それまでは秘密にしといてくれって、頼まれたんだよう」

謎は深まるばかりだ。ミツは一体、何をしようとしていたのだろう。
しかし、もしナカザワの言うことが本当なら、彼女にはアリバイがあることになる。

「じゃあ警察にも言ってないんですか、そのこと」
「あったりまえだ。あんな連中に言ったって、信用してくれるわけがねえ。どうせグルんなってるって思われて、おしまいだ」

確かに、ナカザワひとりが証言しても、あの刑事はとりあってくれないだろう。しかし。

「あの、ナカザワさん、私訊くのを忘れていたんだけど、クロサワさんは、十時頃社務所に来たのかしら」
「ああ、そうそう。俺が来た時は、裏口の前で待ってたな。んで俺が中に入って、ミツ姉さんを送りに裏口に来た時には、もういなかった」
「どんな用だったんでしょう」
「さあ...。姉さんはタロウちゃんがいないんで、少し困ってたみてえだったけど、時間がないからって、祠のほうへ行っちまった。姉さん眼が悪いから、一緒に行って貰いたかったんじゃねえかなあ」
「なるほど...」

ばらばらに広げられた事件のピースが、少しずつ合わさっていくのを、私は感じていた。しかしまだ足りない。情報が、証言が。

「ありがとうございます。話してくれて」
「いんや、こんなことでよかったら」

ナカザワは照れ臭そうに笑った。
石垣の急な階段を下りてゆこうとすると、

「先生、ジャニスの『パール』は、やっぱ最高だいね、先生もそう思うだろ」

ナカザワは大きな声で、言った。

「ええ勿論」

私はそう言って、彼に頭を下げ、谷の一番奥、サクヤの家へと、急いだ。

   *   *   *   *   *

社務所を兼ねたサクヤの家には、あのミギシマという刑事、それに数人の警察官がいた。ミギシマは私に眼を留めると、ほう、と声を上げ、つかつかと近付いて来て、

「おや学者先生。捜査に御協力、ありがとうございます」

慇懃無礼に言う。私も負けじと斬り返す。

「別にあなたの為に来たわけじゃありません。仕事ですから」
「ふん、もうどうでもいいんじゃないのかね、そんな調査」
「そうはいきません。まだ宮司の奥様に伺っていないことが、沢山あるんです」
「そうかい。サクヤ・ミツは自分の部屋にいるよ。行って何でも訊いてきたらいい」
「...」
「なんだい、何か文句でもあるのかい、俺たちのやり方に」
「ええありますね。憶測だけでゴールを決めて、そこに向かって道筋をつけるだけなんて、フェアじゃありません」
「なにい」
「第一、逮捕に踏み切れないということは、証拠があがっていないんでしょう。違いますか」

大きな眼をぎょろりとひん剥いて、ミギシマは私を睨んだ。しかしどういう訳か、ふん、と鼻から息を吐くと、

「ちぇっ、痛い処を突いてくるじゃねえか。そのとおりさ。状況証拠はあるが、自供も物的証拠もない。強引にしょっぴくことも出来るが、病弱な女を無理矢理連れていって何かあれば、警察の面子にも関わるしなあ」

そしてぼりぼりと頭を掻く。私は思いきって訊いてみることにした。

「クロサワさんは、もう此処にいらっしゃるんですか」
「ああ、あの男はまだだ。昨晩家に帰して、今日の午後四時までに此処に来るように言ってある。村長にも奴の上司にも話をしてあるし、こんな狭ぇ村だからな。逃げるおそれがないと判断したわけさ」
「そうですか。では、クロサワさんは、ご自身のアリバイをどう証言されてるんですか」
「は?」
「トオルさんの屍体を発見した時、クロサワさんは暫く現れませんでした。現場に到着したのは、サトコさん、私、ヤヘエさんと長老の皆さん、ツネさん、そして少し経ってからミツさんの順です。確かミツさんが、お風呂の中のトオルさんを見て倒れてしまって、それを私とツネさんで支えて、ヤヘエさんが警察を呼ぶようにと声を上げて、その後漸く走って来たんです」
「ほう、そうなのか」
「ええ。それも外から。ということは、少なくとも拝殿の周辺にいたのではない、ということになります。考えられるのは社務所の裏手のずっと奥のほう。そんなところに用があったのでしょうか」
「さてねえ。しかしそれは、クロサワが犯人でないと仮定しての話だろ」
「そうですよ」
「ふん、まあいいや。クロサワの供述はこうだ。午前十時頃、ミツに呼ばれていたので社務所の裏口にまわった。暫くしてあのツネとかいう婆さんが来て、社務所の裏手の奥、林の中にある石塔の前で待っていてくれ、と言ったそうだ。ミツからの言伝なんだと。そこで待っていたが誰も来ない。不審に思っていたところに、悲鳴が聞こえた、ということだな」
「それで、ツネさんはそれについては」
「そんな言伝をした覚えは無いと言っている。ミツもそれについては知らないという。この際、クロサワが嘘をついていると考えるのが筋じゃないのか。ひとり罪を免れるためにな」
「まさか、そんな」
「じゃあ仮にクロサワの証言が正しいとしたら、ミツもツネも嘘をついたことになる。その場合考えられるのは、ミツがクロサワをはめようとした、ってのが合理的だろうよ。奴のアリバイをなくす為にな。そしてその場合は、ツネと、クロサワ以外の協力者がいた可能性が高いな」
「どうしてそうなるんです」
「だって考えてみろ。もしもだ、ミツの共犯がツネだけだったとして、トオルをふたりで抱えて風呂場へドボン、なんてことが出来ると思うか? 三十過ぎの男と八十近い婆さんじゃ、腕力が違うだろうが。だからこの際、クロサワと同じ年頃くらいの男が協力した、と考えるのが普通だろ」

私の頭の中に、ナカザワの笑顔が浮かんだ。
そんな、そんなことは。

「ちょっと、どうしてミツさんが犯人ってところに拘るんですか」
「だってそれ以外動機が考えられねえんだよ、動機が。他にあのトオルって男を殺して、何か得する奴がいるのか、この谷によう。いねえだろうが」

私はまた頭を抱えた。考えれば考えるほど、予測は悪い方向へと進む。

「クロサワやミツを庇いたいって気持ちは判らんでもないがな。俺も仕事なもんでな。ささ、用はそれだけか。さっさとミツんとこに行って仕事を済ませて来いよ。後で少し訊きたいこともあるしな」

ミギシマにそう言われて、不本意ながらも、私はよろよろとサクヤの家に入っていった。

   *   *   *   *   *

ミツは桜色の美しい着物に身を包んで、端然と座して私を待っていた。

「このたびは...お悔やみを、申し上げます」

私が深々と頭を下げると、

「ありがとうございます、こちらこそ、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

と、彼女も頭を下げる。

「ほんとに、とんだことで」
「ええ...私も、何がなんだかさっぱり...」

見かけは平静を装っているけれど、間違いなくミツは憔悴している。無理もない。夫を何者かに殺され、その嫌疑が自分にかかっているのだ。きっと昨晩、激しい取調べを受けたんだろう。

「昨晩、警察署で具合が悪くなったと伺いましたが」
「ええ。取調べ中に意識がなくなりまして、すぐに病院へ連れていっていただきました」
「意識が、ですか」
「最近どうも良くないのです。昔からさほど丈夫ではありませんでしたけれど...。もう役目を終えなさい、という、神様からのお告げなのでしょうか」

悲しそうに眼を伏せるミツの様子を見て、私は益々彼女に同情した。
そして思い出した。ナカザワが言付かった、あの話を。

「そうそう、ミツさん、あのですね」
「はい」

私はミツに話した。毛髪などの組織検査の結果、ミツの身体に「よくないもんが溜まってるみたい」だということ。そして村の診療所から薬の処方があるか、水や食事に気を付けるよう言われているかを尋ねた。

「いいえ...初耳です」

ミツは首を振り、眉を顰めた。

「村の井戸から、辰砂、つまり硫化水銀が検出されたという話は」
「ええ、それは存じております。でも硫化水銀の毒性は弱いそうで、保健所の方も心配するような数値ではないと」
「そうですか...では、他にお心当たりは」
「さあ...」

唇に指を当てて、ミツは暫く考え込んでいた。が、
突然、彼女の白く濁った眼が大きく見開かれ。
瞳が虹色に光った。
眉間に深い溝が刻まれた。

「ま...さか...」
「は」

私の声に反応して、ミツは軽く首を振り、居住まいを正した。

「ごめんなさい、矢張り疲れているようね。私、少し横になります」
「はあ...すみません、お疲れなのに」

彼女に訊きたいことは山ほどあるのだが、こんな状態では仕方あるまい。
私はミツの部屋を辞して、社務所を出、ナカザワの言った「神社の裏の祠」を見つけることにした。

   *   *   *   *   *

神社本殿の裏手を少し奥に進んだところには、大きな溜め池がある。それはシライトサワの真ん中を緩やかに流れる川の源となっており、その池には岩から沁みだした湧き水が、ちょろちょろと注ぎ込まれている。集落全体の水瓶として、長い間利用されてきたのだろう。
溜め池のほとりをぐるりと回ると、わずかな下り坂があり、やがて大きな岩が行く手を阻む。これが谷の一番奥になるようだ。その岩の下に、ぽつねんと祠があった。石造りの割に大きく、私のリュックがまるまる収まってしまいそうな奥行きがあるが、中には何も入っていない。祠の土台になっている大きな石にも、ぽっかりと大きな穴が空いており、そこには、

「あ、これね、サトコちゃんが言っていたのは」

真っ赤なタオルが敷かれており、その手前に、食べ散らかした飯と鰹節があった。どうやらあの小さな猫は、此処をねぐらにしているらしい。
生憎と、猫の姿は見えない。辺りをごそごそ探してみたものの、それらしき気配もない。当然この辺りにも警察の調べが入っただろうから、それに怯えて逃げてしまったのかも知れない。
しかし、またお腹を空かせて、ここに戻って来るだろう。何も食べ物がなければ可哀想だ。そう思った私は、藪を掻き分けてサクヤの家へと走った。ツネさんにうまくねだって、あの台所で鰹節を貰おう。そうして仔猫にあげるのだ。
ちょうど風呂場に面した土間の裏手口。忌まわしい殺人事件のあとは感じられない。とはいえスキップで飛び込んで行くほど気楽にもなれない。私はそうっと、土間の向こうの台所を覗いた。
逆光だった。表側の入り口から光が差している。コントラストがあまりに強すぎて、私の視界はくらくらと揺れた。

「ツネさん、いますか」

私は眼を細めた。段々と視界が落ち着きを取り戻してゆく。

「ツネさん」

土間の真ん中に、何か大きなものが。

「え」

斃れている。

白髪の、女だ。

眼を見開いて。

口をあんぐりと開けて。

「ひいいっ」

ツネだ。

ツネの首には、絹糸が。
ぐるぐると幾重にも、巻かれていた。

「そ、そんな、そんな」

動かない。ぴくりともしない。
足が震えて、私はその場にへたり込んだ。

「きゃあう」

後ろで鳴き声が。
振り向いた先には。

あの小さな、白い猫がいた。

   *   *   *   *   *

「はあっ、はあっ、はあっ」

私は走った。足が縺れて何度も転んだけれど。
昼飯にでも出かけたのか、刑事や警察官はいなかった。だから誰かに知らせなければと思った。
坂道を駆け下りてゆくと、あの少し開けた広場のような処に、谷の住人たちが集まっていた。

「だから、一刻も早く此処を出たほうがいい。住む場所や畑は俺に任せてくれ。決して悪いようにはしねえから」

ヤヘエが大きな声で呼びかけている。

「そんなこといってもよう」
「いくら猫の祟りか呪いかっつってもよう」
「すぐにゃ無理だって」

人々から異論がおこる。

「金ならなんとでもする。幸い、此処にゃ金になるもんがあるんだ。みんな、それをこれから...」

何を言っているのか知らないが、私は。

「ちょ、ちょっと待って」
「は? 何だあんた、邪魔しねえでくれ」

ヤヘエが迷惑そうに言う。

「大変なんです、た、大変」
「こっちだって大変なんだよ。さっきシンゴが、そこの崖から誰かに突き落とされたんだ」
「なっ」
「酷ぇ怪我で、今病院まで運んでるとこだ。これもきっと猫の所為だ。なあみんな」

人々がおずおずと、頷く。

「ああおそろしや、おそろしや」

ナカザワのお婆さんが、手を擦り合わせている。
嘘だろう。なんだってそんなに、立て続けに。

「とにかく、今大事な話をしてんだ。あんたは黙っててくれ」

そんな訳にはいかない。

「何を言ってるんです、早く来て、早く!」

私は声の限りに叫んだ。

「うるせえな何だってんだ一体」
「ツネさんが、ツネさんが」
「ツネがどうしたって」

「死んでるんですっ、サクヤの家でっ」

「なにいい」
「早く、早く来てくださいっ」

ヤヘエが、そして谷の人々が、慌てふためいて坂を駆け上がる。
私はよろよろと、後に続いた。頭が混乱している。
猫だって。何故猫なのだ。
あんなちいさな白いものが。
嘘だ。嘘だ嘘だうそだ。

「わあああああああっ」

響めきが聞こえた。

「ツネっ」
「なんてひどい」
「おおお、おそろしいい」

人々は土間の入り口から、ツネの変わり果てた姿を見て、嘆いたり騒いだり呻いたり。
私はその横を、足を引きずって通り過ぎた。
もう厭だ。

「お静かに」

凛とした声が響いた。
見ると、土間に面した廊下には、ミツが立っている。人々はその姿に釘付けになった。

「あっ、あんた、これは一体」

ヤヘエがぶるぶると身体を震わせている。
ミツはその様子を、冷ややかな眼でじいと見て、言った。

「それが猫の所為だとするなら、私は祓をしなければなりません」
「なっ、なな何を悠長なことを。ひひ人が死んでるんだぞ、猫、猫が」
「私の主人も死にました。あなたはそれを猫の所為だと仰った。そうですね」
「ぬ、ぬううっ」
「ならば、皆さん、邪気を祓いましょう。これで最後です。決してもう、猫の災厄など、起こしはしません」

ミツが人々に呼びかける。

「ああ、そうだ。大奥様は邪気を祓ってくだすった」

ナカザワの祖母が言う。

「そうだ。きっと奥様なら」
「そうだな」
「おうよ」

ざわざわと人々が騒ぎ出す。

「おっ、おい、ちょっと待てッ」

唯一人、ヤヘエは違った。汗をぐっしょりとかいて、身体を震わせたまま、慌てふためいている。

「今更なんだ、邪気を祓うだとう、もういい、そ、そんなことより、けけ警察を」
「警察なんか、後で来るだんべ」
「そうだよ、どうせこっから出ていくんなら、奥様に祓をして貰うべえ」
「そうだ、奥様の祓を」
「祓を」

「さあ皆さん、可哀想なツネさんを、家に連れて帰ってくださいな。三時きっかりに、祓を始めますよ。拝殿の前に、必ず一人も欠けることなく、集まってくださいね」

ミツの声が、人々に落ち着きを取り戻させた。
そうして、ツネの遺体は戸板に乗せられ、彼等によってゆっくりと運ばれて行ったのだが。
ヤヘエだけは、何かに怯えるように、何度も振り返りながら、サクヤの家を後にした。

「ヨシムラさん、お願いがあるのです」
「はっ」

ミツの呼びかけに、私は何故か緊張した。

「準備を、手伝っていただけますか」

彼女の微笑みに、私は、人を圧するちからを、感じた。




つづく







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