第二百八十二話 糸紡ぐ猫(其一) | ねこバナ。

第二百八十二話 糸紡ぐ猫(其一)

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桜が、咲いていた。
じっとりと額に滲む汗をハンカチでぬぐい、私はしばし、眼前の光景に見とれた。

小高い山に挟まれた東向きの谷。その奥から小川がゆらゆらと蛇行しながら流れ、ぽつり、ぽつりと人家が並ぶ。
それら人家の脇には、まるで判を捺したように、薄紅色の桜が幾つも幾つも、咲いていたのだ。
そしてスイセンの白、菜の花の黄色が、ゆらゆらとその周囲を彩っている。
四月も半ばになろうという今、この谷は、穏やかな春を迎えていた。
暖かい風が谷から吹いてくる。花の香りが、帽子からはみ出した髪を心地よく揺らす。

「桃源郷って、こういうのかしら」

そんな他愛もない独り言を呟き、私はリュックを背負い直して、ゆっくりと谷へ向かった。

都内から国鉄と私鉄、乗合バスを乗継いで四時間半、さらにバス停から徒歩五十分。私がやって来たのは、G県の西のはずれにある、小さな村の、そのまた小さな集落、シライトサワだ。
文部省の伝統行事と祭礼に関する大規模な調査計画がまとまり、私の勤める大学でも、後継者がなく失われようとしている祭礼の調査に一役買うことになった。とはいえ、小さな私立大学の民俗学ゼミなど常に人手不足で、教授であれ講師であれ学生であれ、ひとりの調査員として現地に赴かねばならない。まだ講師に着任して二年足らずの私は、学生時代の合宿以来初めて、田舎に泊まり込みで調査に入ることになったのだ。
勿論、民俗学などという学問に足を突っ込んだからには、山歩きも見知らぬ田舎に泊まることも、そう辛いとは思わない。ただ、古い因習が残る集落に、私のような三十手前の女性がひとりで調査に入ること自体、白眼視されることもある。ところが今回、調査の世話役をかって出てくれた村の青年団の役員が、心配要らぬと太鼓判を押してくれた。そのおかげで、私はこうして、夢のような穏やかな光景の広がる谷を、歩くことが出来るのである。
集落の入り口と思しき処には庚申塔が立っていた。ベンガラが所々剥げ落ちたその古い石塔の横で、ひとりの男性が、ぼんやり空を見上げていた。

「こんにちは」

私が挨拶をすると、

「ああ、もしかして、ヨシムラ・ハルカさんですか、K大学の」

と男性はにっこり笑った。

「はい。クロサワさんですね、はじめまして」
「ええこちらこそ。どうぞよろしく」

ぺこりとお互い頭を下げる。どうやら彼が、世話役の青年団員クロサワ・タロウ氏らしい。
荷物を持つと言ってクロサワは手を差し出したが、私は大丈夫と断った。彼はにこにこしたまま、特に気分を害したふうもなく、私に並んで歩き出した。

「疲れたでしょう、こんな田舎まで」
「いえ、私好きなんです、こうやって歩くの」
「ははは、そうですか。大学の先生っていうから、もっとか弱い女性を想像してたんですけど、ヤッケにズボンにリュックなんて、たくましいなあ」
「もちろん、か弱い人もいますよ。でも生憎と私は違います」
「おや失礼」

快活にクロサワは笑う。彼の言葉にはこの地域独特の訛りがない。道すがら聞いたところによれば、彼は都内のM大学を出てすぐ地元に戻り、村役場に就職したのだそうだ。大学を出たというだけで幹部候補ですよ、僕みたいな劣等生でもね、と彼は頭を掻く。
そうして彼は、この集落について、おおざっぱな説明を始めた。住人は二十八人、うち半数以上が六十歳以上の高齢者だ。四人ほど麓の町まで働きに出ている人もいるが、あとは狭い耕作地で農業に従事している。神社の宮司が地域の顔役のような役目を代々受け継いでおり、村人はすべて氏子になる。まあ、本当に古い田舎のムラと思っていただければ、とクロサワはやや卑下したような口調で言った。
ゆっくりと谷の道を歩き、田畑と家々を抜けて、少し開けた広場のような処に出ると、

「ほら、あれが鎮守のクシマ神社です」

と、クロサワが谷の一番奥を指差す。見ると、石造りのいかつい鳥居が、威風辺りを払うといったふうで立っていた。

「三年に一度、あそこで祭をやっているんですが、祭祀の後継ぎがいなくなってしまうとかで、今回で終わりにしてしまうそうですよ」
「へえ...」
「まあ、おカイコもやらなくなってしまいましたからね。祭自体の意味もなくなってしまったのかも知れません」
「ああ、おカイコ」
「ええ。ここらへんは昔盛んでしたから。戦後しばらくはよかったらしいんですが、今じゃもう駄目ですね」

そう言ってクロサワは肩をすくめる。おカイコ、つまり養蚕はこの地域の中心的な産業だった。そうした地域には養蚕にまるわる信仰をもつ神社が多い。しかし人工繊維の普及や安い輸入品の増加に伴って廃れてしまい、今では見る影もない。彼の話では、この集落は村内でもいち早く、養蚕に見切りをつけたのだそうだ。

「うちの婆さんの話だと、このシライトサワは村の製糸組合には参加せず、独自の出荷ルートを持っていたらしいです。なんでも皇族がたの着物になる糸なんだとかで。どこまで本当か判りませんけどね。品質が良かったのは確からしいので、あっさりおカイコから手を引いたのはどうしてだろうって、噂になったようですよ」
「でも神社のお祭は、続いていたんですね」
「ええ。おカイコがよく当たりますようにって、わりと遠方からも人が来てましたからね。僕も何度か行ったことありますよ。もっとも、カグラを舞って酒を振舞うだけですから、子どもが見てても面白くなかったですがね」

シライトサワのクシマ神社は、この地域では最も有名な、養蚕に縁のある神社だという。明治時代の養蚕書にもその名が登場しており、クロサワのいうように、その御利益に与ろうと遠方から参拝に訪れる人もあるという。が、不思議なことに、その祭に関する記述は驚くほど少ない。昭和に入ってからは、自称郷土史家によって刊行された本のいちページ、それも十数行があるだけだ。ゆえに今回の調査となったわけだが、

「実を言うと、僕らもあまり知らんのですよ、ここいらのことに関しては。いえ、もちろん顔見知りではありますがね、詳しく突っ込んでいけないというか、余所者を立入らせないというか、妙な雰囲気がありましてね」

クロサワが、少し声をひそめて言う。と、脇の石垣の上から、声をかけてくる者があった。

「おう、タロウちゃん、どしたい今日は」

麦わら帽を被った、よく日焼けした小柄な青年だ。

「いんや、カミの家にさ、大学の先生連れてきた、ほれシンゴちゃん、こないだ話したんべ」

クロサワが適度に訛った喋りで応じる。カミの家とは、恐らく宮司の家のことだろう。
私がぺこりと頭を下げると、

「おお、東京の女センセイ、こんな田舎までえ、物好きだいねえ」

からからと高い声で男は笑い、そいじゃ、と手を振って石垣の向こうに消えた。

「あれはシライトサワで僕がいちばん仲の良い男でね、ナカザワっていうんです」
「ずっとこちらにお住まいの方で」
「ええ。その割にサバけたところがありましてね。よく街に出かけてって、新しいものに食いついてますよ。ええとなんだっけ、ジャニス・ジョ、ジョ」
「ジョップリン」
「そうそう、そんな歌手が好きなんですって。レコードも持ってて、さんざん聞かされました」
「へえ」
「僕にゃちょっと、しっくりこないですがね」

クロサワは首を振って苦笑いする。こんな田舎町でジャニスの名前を耳にするとは、思ってもみなかった。
のどかな山村の風景に、ジャニスの荒っぽい歌声。どうもしっくりこないが、しぜん、頭の中にあの歌声が響いて来る。
緩やかな坂の回りに咲く花々。まだ僅かに冷たさを残す風。そんなものたちに囲まれて、私は無意識に口ずさんでいた。

Trust in me, baby, give me time, gimme time, um gimme time...

「え?」

クロサワが不思議そうに私を覗き込む。

「あ、いいえ、あまり気分がいいもんで」

と、私は俯いて誤魔化した。クロサワは複雑な表情を浮かべ、そしてすぐに、

「ほら、あれが宮司の家ですよ」

鳥居を抜けた先、神社本殿の右にある、大きな家を指差した。

  *   *   *   *   *

「こんな山奥まで、ようこそおいでくださいました」

と、にこやかに私を出迎えたのは、宮司のサクヤ・トオルだ。黒縁の眼鏡をかけた、細身の穏和そうな人物で、年の頃は四十半ばといったところか。
宮司に案内され、家の奥の間に通されると、そこには三人の女と一人の男が、座して私を待っていた。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

涼やかな声が響いて、上座の女性がにこりと笑った。サクヤが紹介するところによれば、その女性は宮司の妻ミツ。萌葱色の美しい着物に身を包んで、穏やかな雰囲気を漂わせている。
座を勧められ、クロサワと並んでいそいそと座る。私が自己紹介をすると、ミツが他の三人を紹介し始めた。

「これは私の姪で、カミヤ・サトコと申します。明日カグラで舞って貰うことになっております」
「こんにちは」

利発そうな少女が、私にぺこりと頭を下げた。

「そして、家の手伝いをしてくれている、ツネです。婆や、お茶をお願い」
「はい奥様」

婆やと呼ばれた老女ツネは、私に深々と頭を下げ、背中を丸めて出て行った。

「そして、今日は氏子総代のヤヘエさんにも来ていただいています。私どもで判らないことがあれば、ヤヘエさんに訊いていただくといいでしょう」
「どうも」

むっつりとした土佐犬のような面持ちで、背広の初老の男性が唸るように言った。じろりとねめつけるような視線からして、どうも歓迎されているとは言い難かった。しかしこのヤヘエという人以外は、概ね好意的に私を迎えてくれているようだ。

「クロサワさん、ご苦労さま」
「いいや、僕はただ連れてきただけだから」
「どうぞ、ゆっくりなすってね」

親しげにミツとクロサワが言葉を交わす。そして、ミツは私に向き直る。

「それで、祭の調査のために、おいでになったとか」

私は事の次第をかいつまんで説明し、祭の概要と伝承、それに記録を取らせてほしいと依頼した。そして大学からの公式な依頼文書を渡そうとしたとき、

「ああ、それは私が」

と、姪のサトコが私のほうににじり寄り、文書を受け取って、ミツの傍らに座り直す。そうして、その内容を小声で読んで聞かせているのだ。
私は訝って、ミツの顔をよく見た。その眼は文書を見ていない。ぼんやりと下の方を向いているだけだ。瞳の色が、白く濁っているのに気が付いた。

「よく判りました。私共で御協力出来ることなら、何でもいたしましょう。ねえあなた」
「ああ勿論」

妻ミツの呼びかけに、夫サクヤはにこにこと応じる。私はまたも違和感を憶えた。宮司で夫のサクヤトオルではなく、妻のミツが、この場を仕切っているではないか。

「お茶をどうぞ」

ツネがお茶を菓子を運んで来た。見事な道明寺で、この季節に似合いだな、などと呑気に思っていると、

「おや、あんた、それは」

出し抜けにヤヘエが声を挙げる。私のノートを指差して、眼をひん剥いている。

「はい、何か」
「何って、それは、ね、猫でねえか」

私のノートには、座る黒猫を描いたシールが貼り付けてある。小さい頃から猫が好きな私は、何処かに猫をあしらったものを身に付けたり、持ち歩いたりするのが好きなのだ。

「はい、そうですね、猫です」
「何だってこんなもん付けてくるんだ」
「何だって、って、あのう、猫はお嫌いですか」
「好きとか嫌いとか、そういうんじゃねえだよあんた、こ、こんなもん」

初めはからかっているのかと思った。しかしヤヘエの剣幕は尋常ではない。私は慌てた。

「あの、どういうことですか一体」
「こんなもん、さ、さっさと外に出しちまえ」
「ヤヘエさん、お静かになさい」

ミツの静かな声が、ようやくヤヘエを制した。

「しかしだな、ミツさんよ、何であれどんなもんであれ、猫は谷に入れちゃいけねえって」
「そんなものは迷信ですよ。だいいち、それは只の飾りじゃありませんか。わざわざ遠くから来たお客さんに失礼ですよ」

穏やかに、しかしきつく押し止めるように言われて、ヤヘエはむっつりと押し黙った。ミツは困った顔を私に向けて、なだめるように言った。

「ごめんなさい、いきなり、びっくりなすったでしょう」
「は、はあ」
「ここの古い言い伝えでね、猫は悪さをするから、谷には入れてはいけないと言われているの。随分恐ろしい言い伝えだから、それを信じている人が多いのよ。でもお気になさらないでね。私たちはいっこうに構いませんから。ねえあなた」
「ああ勿論」

ミツの言葉に、サクヤはまた、にこにこと応じる。そこに何処か無機質なものを感じて、私は言い知れぬ不安を覚えた。
そして、猫だ。
何故猫がいけないのだろう。クロサワからも先程聞いたとおり、この地域は養蚕の盛んな地域だったはずだ。しばしば猫は、カイコの守り神と見なされることがある。カイコの天敵であるネズミを捕食するからに他ならないが、猫そのものばかりでなく、猫を描いた絵を家に貼り付けて、「カイコ大当たり」を願うこともあるくらいだ。祭り上げられても、貶められることはない。それなのに。
いったい何故。

「どうぞ、御菓子を召し上がって。お仕事はそのあとにいたしましょう」

というミツの言葉に、私の思考は中断された。
そうして私は、茶を飲み菓子を食べながら、ミツの他愛もない問いにつらつらと答えていた。恐らく、端から見れば穏やかな午後のひとときに見えるであろう。が。
ヤヘエはむっつりとしたまま、どうにも落ち着かない。そして何故か、先程からミツの姪サトコがそわそわとしている。
宮司の、いやミツの夫のサクヤは、相変わらずにこにこと、無機質な笑みを浮かべている。私が「普通に」見えるのは、ミツとクロサワのふたりだけだ。この違和感は一体何なのだろう。

「さあ、それじゃ、神社をご案内しましょうね。どうぞ、ついていらして」

そう言ってゆっくりとミツが立ち上がり、脇をサトコが支えた。私とクロサワはそれに従った。
しかし、宮司たるはずのサクヤ・トオルは、後に続こうともしなかった。

  *   *   *   *   *

クシマ神社の拝殿と本殿は、鳥居の剛直さに比して、質素でこぢんまりとしている。社務所を兼ねた宮司の家からは渡り廊下で繋がっており、クロサワと私はミツとサトコに従って、黒光りした廊下を歩き、拝殿の中へと導かれた。

「さあ、ここでお話いたしましょう」

ミツは拝殿の中央にするりと座った。拝殿の中には注連縄が張り巡らされ、紙垂が幾つも垂れ下がっている。そしてミツのすぐ側には、黒褐色の木製の台が置いてあった。
その上には紫色の絹織物が敷かれ、その中央には、握り拳二つほどの大きさの、細長い石が、鎮座していた。

「これが「カイコ石」です。明日のお祭のために、今朝本殿から移して参りました。参拝者はこの御利益を求めていらっしゃるのです。サトコのカグラも、この石を巡るように舞われるのです。祭の間は布で隠してしまいますから、他所の方にお見せするのは、これが最初で最後になるでしょう」

近くでよく見せて貰うと、確かに成長したカイコの幼虫に似ているようにも見える。しかし、しばらく見ているうち、私には別の生き物のかたちが見えてきた。
首をもたげるようにして宙に浮いている頭の部分。その両脇には、耳のような三角形の模様が付いている。滑らかに背中から尻へと至る曲線が、突然尻のところで断絶する。
よく見ると、何かが欠けたような痕がある。細長いものが尻に付いていて、それがポキリと折れてしまったような。
眼も口もない。足の位置も定かでない。しかしこれは。

「ね」

猫、と口にしかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。真逆そんなことはあるまい。猫が禁忌と言われているのなら、そんな像を拝んだりするはずはないだろう。

「どうかなさいましたか」
「いいいえ」

ミツの問いを拙く誤魔化し、私はこの石の由来を聞いた。他の養蚕にまつわる神社と同じように、ここも遙か千八百年前に大陸から養蚕がもたらされたという伝承がある。その際、大陸から移り住んだ養蚕技術者の渡来人たちが、この地で養蚕を営むことについて木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメノミコト)と契約を交わし、その証として天から落ちてきたのがこの石である、というのだ。

「伝承によれば、この神社創建以来、記録に残っている範囲でも江戸時代後期から、三年に一度、この祭はずっと続けられて来たのだといいます。しかし、それも今年で終わりです」

ミツは寂しげに俯いた。

「どうして、お祭を止めてしまうのですか」

と問うと、ミツは寂しげな表情のまま、虚空を見つめて言った。

「祭を司る者が、私のあとには、もうおりませんので」
「あ、あのう、宮司の旦那様は...」
「もうお話してしまいますが、この神社の神職というのは、もともと女性が司っているのです」
「奥様ッ」

拝殿の外からしわがれた声がした。ツネがミツを見て首を振っている。しかしミツはそれを制した。

「いいのよ婆や。祭がなくなれば、この神社じたい、存在意義もなくなるのですから。記録していただくことが、何かの助けになるでしょう」
「しかし奥様」
「いいのです。ヨシムラさん、お気になさらないでね。これは一応、この神社の秘儀なのですけれど、もう隠し立てしても意味が無いので、今回見ていただくことにしたのです」
「は...」

そうしてミツは、訥々と話し始めた。

「私の聞くところによれば、明治三年の大教宣布以後、神事を女が執り行うこと自体が忌み嫌われ、ここでも建前として男性を宮司とすることが慣例となったといいます。戦後は女性の神職も多くなってきたと聞きますが、ここでは相変わらず、女性が秘かに神事を執り行うという形式がとられています」
「なるほど、では旦那様は形式的な宮司と」
「ええ、秘儀とされる神事にはほとんど関わりません。彼は社務所を取り仕切る、いわば社長のような役割でしょうか。ですから私が、この神社の神事一切を任されています。そして、もうその後継ぎがいないのです」
「後継ぎ、ですか」
「この神社の神職は一子相伝、しかも女系でなければいけません。そして、私と夫との間に...子は授かりませんでした」
「そ、そんな、まだお若いじゃありませんか。まだ」
「いえ、病気をしまして...昨年...手術を受けましたの。もう子は...」
「奥様!」

ツネが叫ぶ。私は自分の愚かしさを呪った。

「...すみません...」
「いいんです。この谷も寂れてきましたし、私たちの役目は、終わったのでしょう。いずれ近在の神社に合祀されて、鎮守としての役目は残りますでしょうから、心配してはおりません」

沈黙が流れる。それに耐えかねたように、サトコが私に言った。

「あのね、ミツおばさまは、とっても踊りがうまかったんですよ。まだおばあさまがお元気のときは、おばさまがカグラを舞ってらしたの。私はおばさまに舞を習ったんですけど、とてもおばさまのようには...」
「いいえ、サトコもとっても上手よ。ヨシムラさん、ぜひたくさん写真を撮ってくださいね。この神社の、最後の晴れ舞台なんですから」

ミツはそう言って、優しく笑った。そして、ああ、と思い出したように声を挙げた

「そうそう、おカイコも見ていただきましょうね。裏の蚕屋で飼っていますから」
「おカイコ、まだやってらっしゃるんですか」
「ええ。勿論売り物にはなりませんよ。神事に使う絹糸を採るためだけに育てているのです。近所の女性たちが世話をしてくれるんですよ。さあ、こちらへどうぞ」

ミツはゆっくり立ち上がり、サトコに支えられて、するすると歩いてゆく。クロサワと私はそれにつき従って拝殿を出ようとした。が、私はどうにも気になって、

「あ、あの、カイコ石、写真を撮ってもいいでしょうか」

と訊いてみた。するとミツは、笑ってこくりと頷く。私は大急ぎでリュックからカメラを取り出し、ファインダー越しにカイコ石を覗き込んだ。
所々ざらついた質感があり、カイコの幼虫のような条線も見える。しかし、この背中、この頭、そしてこの耳。

眼も口もない、尾を切り取られ、虚空に糸を吐こうとする、
猫。

私には、そうとしか、見えない。

何度かシャッターを切り、私はミツに礼を行って、そのあとに従った。

  *   *   *   *   *

社務所の裏手にある蚕屋は、二階建ての、割に大きな建物だった。急な階段を登って二階に上がると、三人の女性がせっせとカイコの世話をしていた。独特の臭いが鼻をつく。

「おお、なんだ、この時期にもうこんなに育って」

クロサワが驚いていると、ミツが手探りで大きな幼虫をつまみ、クロサワに見せる。

「そういえば、まだここをご案内したことはなかったわね。ここでは少し早めに育てているの。ヒーターを炊いて、人工飼料を使って。ほら、立派でしょう」
「ほんとだ。ヨシムラさん、ほら、カイコは見たことありますか」

にゅう、と大きな幼虫を差し出されて、たまらず私はのけぞった。

「は、はい。でもこんなに大きいのは...」
「ははは、そうですか。これはもう繭を作る寸前のやつだからね。ほら、見てごらんなさい」

そう言うと、クロサワはその幼虫を両手で掴むと、ぱきり、と折った。折った口から細い繊維が、すうと伸びていく。

「うわあっ」

私は驚いて、大きな声を出してしまった。

「おカイコの身体の中では、もうこんなに絹の繊維が出来ているんですよ。実際に見るとすごいでしょう」
「は、はい」
「なんだ。やっぱり虫は苦手ですか。じゃあサトコちゃん」
「あああ私も駄目です」

サトコはぱたぱたと手を振って逃げようとする。そんな様子をミツはにこにこしながら見ていたが、

「ほら、ちょうど蛹から出てきたのがいますよ」

と、部屋の隅の棚を指差す。見ると。真っ白なカイコガが、もぞもぞと羽根を伸ばしている。

「この子たちは、子孫を残して貰うために、ここに集めておくのです。交尾をし産卵をしたら、この子たちの一生は終わります」
「ああ」
「ヨシムラさん、ご存知かしら。成虫のカイコガには、眼も口もないんです。羽根が退化しているから、飛ぶことも出来ない。ただ子孫を残すだけのために、あるのですよ」
「えっ」

私は仰天した。
生物としてのカイコについて、私はさほど知識を持っていなかったのだ。

「人間が完全に家畜化した唯一の生き物だからね、おカイコは。自然の中では生きていけないのさ」

クロサワがカイコたちを見ながら言う。
眼も口もない生き物。
飛ぶことすら叶わぬ、交わるだけの存在。

ぱたぱたぱた

カイコガの羽ばたきが聞こえる。
飛べない。

私の頭は、ぐらりと揺れた。

ぱたぱたぱたぱた

そして、あの石が。

眼も口もない。

「...さん」

私は。

「...さん、ヨシムラさん」
「...は...」

はっと我に返った。私はめまいを起こして、その場にしゃがみ込んでいたらしい。

「大丈夫かい」

クロサワが私を覗き込む。

「は、はい、すみません」
「長く歩いて来て、疲れたんでしょう。ちょっと休んだほうがいいよ」
「そうね。サトコ、婆やに床の支度をさせて」
「はい、おばさま」
「じゃあ、僕が連れていくよ」
「お願いします」

クロサワに支えられながら、私は蚕屋をあとにした。
ゆっくりと歩きながら、私は冷静さを取り戻そうとした。が。
私の頭の中は、あの石に、埋め尽くされていった。

  *   *   *   *   *

「...どうだい」
「...ぐっすり寝ているって。やっぱり疲れたんでしょう」
「...そうだな...じゃあ」
「...どうしたの」
「...もう帰るよ。あとはよろしく頼む」
「...いいじゃないの、も少しゆっくり」
「...そうはいかないさ。仕事もあるしな」
「...タロウちゃん、おねがい」
「...ちょっと、ミっちゃんどうしたんだよ」
「...明日のお祭が終わったら...私...」
「...そんな、そんな訳にはいかないよ」
「...駄目なの、駄目なのよう私は、タロウちゃんがいないと」
「...だって旦那はどうするんだよ」
「...あんな操り人形みたいな人、どうでもいいの。私は、私は」
「...ミっちゃん、落ち着けって」
「...どうせ何も聞こえないわ、ねえ」
「...落ち着けってばっ」
「...ごめんなさい...」
「...とにかく、今日は帰るよ。ちゃんと話をするなら、祭が終わって、事が済んでからだ。いいね」
「...ええ...」
「...じゃあ...」

うっすらと、遠くの会話が聞こえた。
夢の中にいるのだと思った。見慣れぬ天井をぼんやり見つめながら、知覚がはっきりするまでしばらくかかった。
クロサワとミツは、何を話していたのだろうか。祭が終わったら、一体どうなるというのだろう。
この神社と神職であるサクヤ一家は、やはりその役目を失うのだろうか。
そのあとは、どうなるのだ。この谷に住まう人々は。
しばらく悶々と、次第に暗くなる天井を見つめながら、布団の中で考えていた。布団は妙に懐かしく、柔らかだった。

「...失礼します」

障子の向こうから声がした。どうぞ、と答えると、サトコが盆を持って現れた。そうして、ぼんぼりのような照明を点けてくれたおかげで、部屋の中はいくぶん明るくなった。

「どうですか、ご気分は」
「ええ、おかげさまで、なんとか」
「よろしかったら、どうぞ召し上がってくださいな」

盆には、くつくつと煮えた雑炊と、菜の花のお浸しが乗っていた。

「すみません、なんだか...」
「いえいえ、お客様なのに、こんな食事でかえって申し訳ないです。ほんとうは婆やが張り切って作るはずだったんですけど、具合が悪いのにあんまり重い食事もよくないと思って。あ、今日は泊まってらしてくださいね。もう暗くなりましたから。村の宿屋には電話をしておきましたからご心配なく。お風呂お使いになります?」
「いえっ、そんな、大丈夫です」
「そうですか。ここは五右衛門風呂なんですよ、いまだに。私なんか入るのが怖くって」

と、サトコは若者らしく笑う。私はますます恐縮してしまった。

「さあさあ、どうぞ召し上がれ」

勧められるまま、私は雑炊をすすった。

「おいしい」
「よかった」
「サトコさん、私ね、不安だったんです。女一人で調査に入っても白い眼で見られないかしら、って」
「あら、そうなんですか」
「でも、心配いらなかったわ。ここでは、いえ少なくともこの神社では、女性が中心なのね。だからこうして、いきなりお邪魔しても大丈夫だったし、しかも泊めてくださるなんて」
「ああ、そういえばそうですね。私はこれが普通だと思ってたんですけど、そうじゃないんですか」
「昔からのことだから、仕方ないのだけれど、女が近付くだけでケガレるって、言われるところもあるのよ」
「まあひどい」
「少しずつ変わってゆくとは思うけど、何百年も続いて来たことは、そう簡単には変わらないわねえ」

と、私は苦笑いした。
そう。長く続いてきたことを変えるとは、容易ではない。

「うわあ、憧れちゃうなあ。そういう勉強って、私もしてみたい」

サトコはそう言って、東京の生活は、大学の講師とはどんなものか、と今時の若者らしい質問をして来た。私はあまりピントのあった答えが出来なかったかもしれない。何せ、東京で過ごすよりも田舎暮らしのほうが性に合っているし、そんなものを求めて学問をしているからには、大して東京の最新事情など知る訳もないからだ。

「私、来年受験なんです。東京の大学に受かったら、遊びに行ってもいいですか」
「ええどうぞ、ぜひ来てください」

サトコと私は、すぐに打ち解けて、笑い合った。この子なら少し突っ込んで訊いても、いいかも知れない。

「ところで、サトコさん」
「はい」
「あの、ミツさんのことなんだけど」
「...なんでしょう」
「眼がお悪いのかしら」
「ああ...はい、そうなんです」

サトコは悲しそうに眼を伏せた。

「小さい頃からあんまり眼はよくなかったんですって。形はぼんやりと見えるけれど、文字を読むのは難しいし、色もよく判らないっておっしゃるの。なんでも、この家の女の子は、生まれつき眼の悪い子が多いとかで。家系なんですかねえ」
「あら」
「ミツおばさまは、私の父の妹なんです。この家に生まれた男の子は、みんな婿養子に出されることになっていたので、父は隣町の造り酒屋に婿入りしたんですよ。でも父は、私が小さいときに病気で亡くなってしまって...。だから、よくおばさまに、父の話を聞きに来ていたんです。おばさまはとっても優しくて、私をほんとの娘みたいに可愛がってくれるんです」
「そう...。じゃあ、ミツさんの旦那様はどうかしら」
「ああ、おじさまは...。ううん、私よく判らないんです」

と、サトコは首をひねる。判らないとはどういうことだろう。

「いえ、いつもにこにこしてて、ゆっくりしてらっしゃい、って声をかけてくれるんですけど、あんまり一緒にいないんですよねえ、おばさまと。ご飯のときも滅多に一緒に食べないし。悪い人じゃないと思うんですけど」
「ミツさんとの仲が良くないのかしら」
「どうでしょうねえ。じつはおばさまも、おじさまのことは、あんまり話してくださらないの。だから多分、何か思っていることはおありなのだと思うんだけど...」

なるほど。どうも複雑な家のようだ。

「そうそう、ところでサトコさん」

私は、もうひとつ、気になっていることを話してみた。

「昼間、氏子総代さんに、私怒られちゃったでしょ。猫のことで」

一瞬で、サトコの顔が引きつった。

「何かご存知ないかしら...サトコさん?」
「...あの、ごめんなさい、私よく判らなくって...」
「どうしたの、私何かいけないことを」
「すっ、すみません、お盆は外に出しておいてください。おやすみなさいっ」

サトコはそう言って頭を下げ、大急ぎで部屋から出て行ってしまった。
何か気を悪くすることでも、あるのだろうか。猫に。
いや、あの様子は、何かに怯えているようすだ。あんな若い女の子を怯えさせることとは、どんなことだろう。
猫か。
例の言い伝えなのだろうか。それとも、他に何か。
色々考えたが何も浮かばず、結局私は、雑炊とお浸しを平らげ、枕元の水を飲んで、早々に寝ることにしたのだった。

眠りに落ちる、その直前に、

「にゃーおう」

猫の鳴き声が、微かに、聞こえた。




つづく







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