第二百五十話 <随筆>なんでもないこと | ねこバナ。

第二百五十話 <随筆>なんでもないこと

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風がようやく涼しくなった頃。
玄関から出て、アパートの二階の廊下から、ぼんやり川原を眺めていた。
ざわざわと草木が揺れて、頭上の電線もそれに呼応して音を立てる。
やっとひと息つける。そう思いながら、ただぼんやりと、川原を眺めていた。

「こんにちは」

下の道のほうから、声をかけられた。
見ると、見覚えのある年配の男性が立っている。
その横には、紐でつながれた茶トラの大きな猫が。

「ああ、こんにちは」

間抜けな返事を返すと、

「お宅の猫ちゃん、今日はいないのかい」

と訊く。マルコのことだ。

「居眠りしてます。その猫ちゃん、いつもお散歩でえらいですねえ」

そう返すと、男性は照れながら笑った。

「いやはは、いつのまにか、こうなっちまったねえ。これも慣れだろうねえ」
「そうですね」
「お宅の猫ちゃんも、紐は大丈夫なんだろ」
「ええ。といっても、この階下まで降りるのがやっとで」
「ほう、そうかい」
「ビビリなもんで」
「ははは、そうかそうか」

男性は快活に笑う。茶トラの猫は、辺りをくんくん嗅ぐのに忙しい。

「それじゃ」
「お気を付けて」

短い挨拶を交わして、男性と猫は、道をゆっくり歩いていった。

  *   *   *   *   *

ある日、川原をのそのそ歩いていると、

「ほら見て、あれ」
「えっ、何なに」

向かい側から歩いて来た年配の女性二人組が、何かを指差してそう言った。
ふと振り返ってみると、

「あら、猫ちゃん繋いで歩いてるの」

あの男性と、茶トラの猫だった。

「可哀想にねえ、繋いでおくなんて」
「ねえ、きっと無理矢理やってるんでしょう、逃げないように」
「自由にさせておかないとねえ、猫は」
「そうそう」
「駄目な飼い主に飼われちゃったもんねえ」

すれ違いざま、そう言うのが聞こえた。

「さあ、それはどうでしょう」

声には出さずに、そう呟いた。
しかし実のところ、私にも自信がない。

昔は私もそう思っていた。先代猫ゴン先生は、老齢になるまで自由気ままに外の世界を楽しんでいた。
たまに怪我をして帰ってきたり、何処かで美味しいものを貰って、そのせいで下痢を起こしたりしていた。それも含めて、外の世界が彼には必要だったのだろう。今はそう解釈することにしている。
しかし、すべての猫に、それが必要かといえば。
やはりどうも違うような気がするのだ。

  *   *   *   *   *

「あら、こんにちは」
「どうも」

階下で猫を飼っている女性に出くわした。いつもチンチラらしき猫を抱いて外に出ることが多いが、実は家の中で五匹以上の猫を飼っている。

「お宅の猫ちゃん、どれもきれいで可愛いですねえ」

本当にそう思っているので、褒めてみた。

「ありがとうございます。でもねえ、やっぱり部屋の中は可哀想で」
「そうなんですか」

女性の顔が曇った。

「あたし、ベランダに遊びに来るノラちゃんに、ごはんあげたり、ベランダに家を作ってあげたりしてたんです。そうしたらこの秋に子供を産んじゃって」
「ああ」

それは見た。コロコロと可愛い仔猫たちが、その部屋のベランダを行き来するのを。

「お隣から文句が出ちゃったんです。洗濯物によじ登ったり、鉢植えを悪戯するからって」
「あああ」

ありがちなトラブルだ。

「それで」
「結局、家に入れることにしたんです。その子」
「仔猫は」
「里子に出しました。幸い貰い手が見つかったので」
「そうですか、それはよかった」
「でもねえ」

ため息をつきながら女性は言う。

「外を恋しがって、ずっと鳴くんですよ。そうしたら他の子たちも興奮してしまって。その鳴き声で今度はお隣から苦情が来てしまって...」
「はあ...」
「お宅のワンちゃんもうるさいのよ! って言いたいんですけど...これ以上トラブルは...ねえ」
「そうですねえ」

どちらの気持ちもそれなりに判る、ような気がする。

「落ちついてくれるといいですね、その子」
「ええ。もうお婆ちゃんだから、そろそろ落ちつくかしら、とは思うんですけど」

少し笑顔が戻ったその女性に、ぺこりとお辞儀をして、私は自室へと戻った。

  *   *   *   *   *

「ほら、みてみて」
「かわいーい」

土手沿いの遊歩道の脇に、子供達がたむろしている。

「こないだからいるんだよ、ここに」
「へえ~」
「ほら、食べな」

ゆっくり通過しながら覗き込むと、白黒ブチの仔猫が、納豆パックに入った餌に、がっついている。

「アキちゃんちで飼いなよ」
「えー、うちはだめ、ナナがいるもん」
「ああ、れとりばー、だったっけ」
「じゃあリナちゃんちは」
「うちはだめ。ママが猫だいっきらいだって」
「そうか~」
「そういうトモちゃんはどうなの」
「うち...飼いたいんだけどなあ」
「どうしたの」

ほう、と、ため息が聞こえた。

「パパがさあ、タロが死んじゃってから、もう動物は飼わないって」
「ああ、去年だっけ」
「そう。もう可哀想だから飼いたくないってさ」
「えーそうなのー」

その気持ちも、判らないでもない。
しかし。

「そのわりにさ、ホームセンターのペットコーナーでさ、じっと見てんの」
「なんだー、じゃ欲しいんじゃん」
「うーん、でもなあ。怒るだろうなあ...」
「どうして」
「新しい子を連れてったらさ、タロが怒るかも、って」
「あーそうかー」

そう、その気持ちもまた、判らないでもない。

「あ、もう食べた」
「すごい早いねえ」
「おなかすいてたんだねえ」

無邪気な声を背後に感じながら、私はとぼとぼと、道を歩いた。

  *   *   *   *   *

「ケイさん、うちの子、こないだ亡くなったんです」
「えっ、そうなの」

久々に仕事場に行って、私は驚いた。
いつも猫の話を互いにしていた女の子が、実家の飼い猫を失ったらしい。
うちの先代猫ゴン先生よりも長命で、元気な子だったそうだ。

「ケイさんからいただいた缶詰のごはんが大好きで、ずっと食べてくれてたんですけど」
「そう...それは残念だったねえ」
「これで、実家には動物が一匹もいなくなっちゃいまして」

寂しそうに彼女は笑った。
彼女は最近結婚し、家を出てしまったのだという。そのうえ飼い猫がいなくなってしまって、ご両親の寂しさはいかばかりかと察する。

「もう飼わなくてもいいやって、両親は言ってるんですけど」
「そうなんだ」
「でも、あたしは飼いたいなあと」
「へえ、アパートで飼うの」
「いいえ、実家で飼ってもらおうかなと」
「ああ、そっち」
「ええ。ふふふ」

彼女には、ちょっとした企みがあるようだ。

「こないだ、近くの動物愛護センターに、いたんです。仔猫がたくさん」
「へえ」
「そこから一匹もらって、実家に連れていっちゃおうかなと」
「いきなりはマズいでしょ」
「いいんです。そうでもしないと、あの人たち、あのままゆるゆる老けていきそうで」
「またー、そんなこと言って」
「いいえ本当に。あんな落ち込んだまま老けていったらどうなることか。だから張り合いを持ってもらいたいんです。どうせ二人とも猫大好きだから、可愛がるに決まってるんですよ」
「そうかあ」
「それに、いざとなったらうちでも飼えるように、これから画策しようと思ってますしね」

彼女の心配は、なによりも、家族を失った両親に向けられているようだ。それはそれで、この際は正しいのではないか、と思えてくる。

「いい子が見つかるといいね」
「ええ。まあ、どの子でも、いい子、になっちゃうと思いますけどね」
「そうだねえ、あはは」
「ふふふ」

いい娘を持って幸せですね。私はご両親に、そう伝えたくなった。

  *   *   *   *   *

「こんにちは」

今日もあの男性に会った。猫はいつもどおり、のそのそと男性に従って歩いている。

「今日も元気ですね」
「まあね。これが日課だからねえ」

初めて見かけてから、もう何年経つだろう。
男性の頭には白いものが増えたし、猫の毛もくたびれてきたようだ。

「どうぞお気を付けて」
「ああ、どうも」

ゆっくり歩くひとりと一匹の後ろ姿は、午後の傾いた陽射しに、じんわりと溶けていた。

そして私は。

「ただいまあ」

ぶらぶらと歩いて、頭も身体も、一層ぼんやりしてしまった。

「なおーう」
「マルや~、帰ったよ~」
「なうー」

ごろんと台所に寝転ぶマルコを、私は思い切り撫でる。
柔らかな毛を、わしわしと。
これが私の日常だ。

「ただいまゴン先生」

祭壇の、眠そうなゴン先生の写真に、そう声を掛ける。
これもまた、なんでもない、私の日常なのだ。

「さあ、ごはん作るよ~」
「なーう」
「ちょっと待って、こっちが先だから」

今日も世界のあちこちで、猫と人との日常が、悲喜こもごもが、綴られてゆく。
なんでもないことなのかもしれないが。
それを私は、大切にしたいと思うのだ。

「だから邪魔しないでってば」
「なーう、なーう」

きらめくような物語は、きっと、なんでもないことの中にある。
私はそう信じて、なんでもない瞬間を、生きて、書いてゆきたいと思うのだ。



おしまい




いつも読んでくだすって、ありがとうございます

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