第二百十七話 秘密の場所へ | ねこバナ。

第二百十七話 秘密の場所へ

【一覧】 【続き物】【御休処】 【番外】

※ 一年前の記事 第五十二話 手紙・ナガサキ


-------------------------------

長崎は坂の街だと聞いていたのだ。
ほんとうに、川を、港を、すべての坂が、そこに立つ家々が、見下ろしている。
平地は狭く、空から降って来る雨は、我先にと川へ、港へ急ぐのだろう。
外へ出ようと、必死になって。
港から、外の世界へと。

  *   *   *   *   *

私はひとりで坂を登っていた。
くねくねと曲がる坂道は、果てしなく続くようにも思える。
じりじりと夏の太陽が照りつけ、私は帽子を脱いで、汗を拭った。

「ふう」

ひと息ついたところで、

「姉ちゃん、どこぃ行きよっと」

不意に後ろから声を掛けられた。
バイクに乗った年輩の男性が、私に向かって不思議そうな眼を向けている。

「この上の学校まで」

私は坂の上を指差した。

「そがんとこまで行くんに、なしてタクシーば使わんとね。バスもちょびっとは出とるばい」

彼は呆れて私を見る。そうなのだろう。この暑い中とぼとぼ坂を登るなんて、正気の沙汰ではないかもしれない。

「いいんです。歩きたいんです、私」

しかし私は、笑ってそう言ったのだ。

「気ぃつけんしゃい」

彼はそう言って、不思議そうな顔をした。私はぺこりと頭を下げて、

「ようし」

足を前に出したのだ。

大きな通りから、一本細い坂道に入ってみる。
くねくねと曲がる道のむこうに。

一匹の猫が、座っていた。
まるで一枚の絵画のように、ぴったりとそこに収まって。

  ■   ■   ■   ■   ■

お母さん、あんたに頼みがあるのよ。
無理にとは言わないけど。でも、出来ればそうして欲しいの。

お母さんが長崎の生まれだってことは、何度も話したわよね。
そして、あそこから東京に出て来て以来、ずっと帰っていないってことも。

今まで話す気にはなれなかったけど。
もう、話してもいいかなって、思ったのよ。

  *   *   *   *   *

大切な友達がいたの。
ミッちゃんていうのよ。
猫が大好きな、勝ち気で元気な女の子。
いっしょに通っていた女学校の、秘密の場所でね。
山の上の、港がよく見える秘密の場所でね。
猫を飼ってたの。

あたしたち二人とも、家庭では不遇だったから。
つらいことや悲しいことを、そこで話し合ったわ。
ふたりと一匹、あそこに居るだけで、あたしは幸せだった。

  *   *   *   *   *

あの日は朝から暑かった。
あたしはミッちゃんと勤労奉仕に行くことになっていたけど。
前の晩、父にひどくぶたれて。
顔が腫れちゃって、行くのがいやだった。

ミッちゃん、あたしの顔を見るなり、
タカちゃんは具合悪いて言っとくけん、休みんさい、って、言ってくれたわ。
あたしは家にいるのもいやだったので。
ひとり、学校へと向かったの。
あの秘密の場所へね。
汗を拭いながら、長い長い坂を登ってね。

薄曇りの空の下。
校庭のすみっこの、秘密の場所。
そこで鰹節を猫にあげながら。
ぼんやり港を見ていたとき。

あの爆弾が、落ちたのよ。


  *   *   *   *   *

そのあとのことは、あまり憶えていないの。
あたしは少しの怪我だけだったけれど。
造船所で働いていたあたしの家族は、帰って来なかったわ。
でもミッちゃんのことが気になって。
あちこちの救護所や病院を必死に回って。
そして見つけたの。
かわいそうなミッちゃんを。

辛くて気の毒で悲しくて。
あたしはただ泣くしかなかったけれど。
ミッちゃんはちいさな声で言ったわ。

お願い。
こいを、あすこに埋めてくれんね。
港の見える、秘密の場所。
あんたと猫と、いつもいっしょに、居られるけん。

微かに口元で笑って。

抜け落ちてしまった髪の毛を。

あたしにくれたのよ。

  *   *   *   *   *

戦争が終わって。
長崎を発って東京に行こうと決めた日。
あたしはあの場所に、秘密の場所に、ミッちゃんの髪の毛を埋めたの。
猫といっしょに座って、髪の毛を埋めたあとを。
いつまでも、ぼんやりと見ていたの。

風が強く吹いていたわ。
港に向かって。

まるで、あたしをせき立てるようにね。

  *   *   *   *   *

ねえお願い。

あたしの身体全部ってわけにはいかないけれど。
少し、ほんの少しでいいのよ。
長崎に、持って行って欲しいの。
そして、あの山の上に。
あたしが通った、あの学校の、校庭のはじっこ。ちょうど港がよく見える、秘密の場所。
そこに、撒いてほしいのよ。
あそこには私の親友がいるの。
そうして、私の大事な思い出も。

ねえ、お願いできるかしら。
ねえ。

  ■   ■   ■   ■   ■

「母がここの生徒だったんです。思い出の場所に行って来てくれって、遺言なんです。入れてくれませんか」

汗だくになって坂を登ってきた私の奇妙な願いを、学校の方は許可してくれた。
そうして、案内してくれたのだ。
港の見える、校庭のはじっこ。

「たぶん、あそこです」

事務員さんの指差した先には、大きな木が生い茂り、その隙間から。
長崎の港が、はっきりと見えた。

「少し、ここにいてもいいですか」
「ええ、どうぞ」

そう言って去っていく事務員さんの後ろ姿を確認して。
私は木陰のひと隅に、腰を下ろした。

「お母さん、ここでいいのね」

バッグから小さな瓶を取り出して、私は話しかけた。
瓶の中の母は、白い灰の姿をして。
妙にさっぱりと、その時を待っていた。

心なしかこんもりと盛り上がっている一角に。
私はゆっくりと、白い灰を撒いた。

さらさらと舞い散る白い灰は、何故だろう。
とても心地よさそうに、私には見えたのだ。

「お母さん、よかったね」

私はそう呟いて、散った灰を眺めて、
そして港を、ぼんやりと見た。

部活の練習をする高校生たちの声が、背後から響いて来る。
その声とともに、風が吹いて来た。

灰をちらして風がゆく。
海へと向かう風だ。
母が感じた風は、こんなだっただろうか。
こんなに強く、吹いていたんだろうか。

「にゃあ」

小さな鳴き声がした。
ふと見た木々のあいだに。

猫のしっぽが、ゆらゆらと揺れた。



おしまい




いつも読んでくだすって、ありがとうございます

ねこバナ。-nekobana_rank
「人気ブログランキング」小説(その他)部門に参加中です


→携帯の方はこちらから←

にほんブログ村 小説ブログ ショートショートへ
にほんブログ村





トップにもどる