第二百一話 紫陽花の葉陰に | ねこバナ。

第二百一話 紫陽花の葉陰に

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雨は嫌いだ。
この季節の、澱んで湿った空気も嫌いだ。
汗をかくほど蒸し暑いのに、どうして気分がこんなに冷え込んでしまうんだろう。
何をするにも憂鬱な季節の只中で、あたしは、のろのろと生きていた。

  *   *   *   *   *

「みゃあ」

小さな鳴き声に気が付いて、ふと足を止めた。
傘を持つ手がだるくなってきた、朝の通勤途中だった。
いつも通る、小さな公園脇の歩道。そこに面して、腰くらいの高さの石垣がある。
その上には、紫陽花が見事に咲いていた。
この季節は嫌いだけれど、あたしは、紫陽花は好きなんだ。
白や青や紫のポンポンが、雨に濡れるようすは、綺麗だと思う。

「みゃあ」

鳴き声は、紫陽花の植え込みから聞こえてくる。
あたしは、そうっと紫陽花に近付いて、しゃがんでみた

「みゃあ」

紫陽花の根元、葉っぱの影に、ちいさな猫がいた。
白に灰色の斑。まんまるの顔で、耳がすこうし垂れている。
時々ぷるぷると身体を震わせて、あたしのほうを、じっと見ている。
淡いブルーの瞳には、どんよりした顔のあたしが映っている。
指を差し出すと、そのちいさな猫は、くんくん臭いを嗅いで、ほっぺを擦り付けた。

「うふふ」

くすぐったくて、あたしは笑った。
そうして、猫の額を撫でてあげた。
うっすらと濡れた猫の額は、やっぱり狭いんだ、と意味も無く思った。

「じゃあね」

あたしは猫にあいさつをして、紫陽花の根元から離れた。
ちいさく手を振ると、猫はまるで、あたしに文句があるかのように、

「うんみゃあ」

と、鳴いた。

  *   *   *   *   *

今朝も雨。
会社に行くのが億劫だ。
きのう、仕事でとんでもない失敗をやらかして、あたしはすっかり落ち込んでいた。
何もかもうまくいかない。何をしたって気分が晴れない。
あたしは、どうすればいいんだろう。

自然に足が重くなる。
後ろから、どんどん人があたしを追い抜いていく。
傘を持つ手が、だるくなってきた。

「うんにゃむ」

変な鳴き声が聞こえて、あたしは足を止めた。
あの紫陽花の陰からだ。
そうっと葉陰を覗いてみると、そこには。

「うんにゃむ、うんにゃむ」

何かを必死で食べる、あのちいさな猫がいた。

きっと誰かがあげたんだろう。小さなカマボコみたいなものを、

「うんにゃむ」

猫は、一生懸命に食べている。
しかも声を出して。

「あんたさあ、そんなに大きな声出してたら、ほかの猫に盗られるよ」

あたしは呆れて、猫に話しかけた。
それでも猫は、

「うんにゃむ、うんにゃむ」

変な声を出して、食べ続けている。
真ん丸な頭が、小刻みに動く。

「そんなにおいしいの」

あたしは可笑しくなって、笑った。
食べるのに夢中すぎる。
そうなんだ。猫は生きるのに必死なんだ。

「じゃあね」

あたしはそう声をかけて、猫に手を振った。
猫は、さもおいしそうに舌なめずりをして、

「うんにゃまん」

と、変な声で、鳴いた。

  *   *   *   *   *

激しい雨の朝。
傘はほとんど役に立たない。あたしも、周りの人も、みんなびしょ濡れだ。
いつもの公園の前を通りかかった。
あの猫はどうしているだろう。
気になって、紫陽花の植え込みの下を、覗き込んでみた。

いなかった。

激しい雨をしのげるはずの葉陰に、猫の姿は、見えなかった。
どうしたんだろう。
今日に限って、あたしは気になってしょうがなかった。
少しの間、植え込みの下をうろうろと覗いてみたけれど、やっぱり猫はいない。
雨はどんどん強くなる。

あたしは、唇をぎゅっと噛んで。
急ぎ足で、公園をあとにした。

  *   *   *   *   *

夕方になって、雨はあがった。
帰り道、あたしはあの公園に寄った。そうして、紫陽花の植え込みの下を覗いた。
公園の遊具の下を覗いた。トイレの脇や、ゴミ箱の周りも覗いてみた。
でもやっぱり。
猫は、いなかった。

あたしは急に力が抜けて、まだ濡れているベンチに、どすんと腰掛けた。

ゆっくり空を見上げた。
木陰から見える薄紫の空には、ちいさな星が、またたき始めていた。
お尻にじんわり冷たさが沁み込んでくる。

あたしったら、なんでこんなに気になるんだろう。
ちょっと見かけただけの、ちいさな猫じゃない。
あの淡いブルーの瞳に、
顔がちらっと、映っただけじゃない。

どんよりした、あたしの顔が。

へんなの。

あたしはのろのろと立ち上がった。
お尻と背中が冷たかったけれど。
あたしは構わずに、のろのろと歩いた。

辺りはすっかり暗くなっていた。

  *   *   *   *   *

翌朝は抜けるような青空が広がった。
久し振りに髪を後ろでまとめてみた。
夏本番のような日差しが、せわしない人々を容赦なく照らした。
傘を持たない左手が、なんだか、手持ち無沙汰に思えた。

いつもの公園脇の歩道。
あたしは、すこうし気にしながら歩いてみた。
水滴が光る紫陽花は、目に痛いくらい、白や青や紫に輝いていた。

長く続く紫陽花の列が切れた角で、あたしは空を見上げた。
ちぎれたような雲が、ぷかぷか浮かんで朝陽を浴びていた。

真ん丸なそのかたちは、まるで。

「みゃあ」

声が聞こえた。
ような気がした。

ふと目を向けた先には。

公園に面した、小さなおうちの出窓。
そこにちんまりと座った、
真ん丸顔で、
白に灰の斑がある、
淡いブルーの瞳の、
猫が。

あたしを見て、

「みゃあ」

声は聞こえないけれど。
たしかにそう鳴いた。

「ああ」

猫のとなりには、真っ青な紫陽花があった。
大きな丸い紫陽花の花は、
猫の目のように。
ガラス窓ごしに、あたしの顔を映した。

あたしの顔は。
笑ってしまうほど。
妙に、くしゃくしゃだった。



おしまい




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