第百八十七話 猫の夜間学校 | ねこバナ。

第百八十七話 猫の夜間学校

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下弦の月が東の空に昇る頃。
僕は家をソツと抜け出して、二丁目の空地へと向ひました。
辺りはしいんと静まりかへつてゐます。しかし、カツカツ、コソコソと微な音が聞こへるのです。
其れは僕と同じ、あの空地へと向ふ者達の足音なのでした。
魚屋の角を曲ると、鉄条網で囲まれた狭い空地があり、其処には古く成つてうち棄てられた人力車が、一つポツネンと置いて在りました。
其まはりには、既に何十匹もの猫が、集まりつつあつたのです。
今日はひと月に一度の、猫の夜間学校の日なのです。
尤も、猫に昼間の学校など有り得ないのですけれど。

「サアサ授業が始まるよう」

チリチリと高い音で鳴る鈴を振つて、校長の魚屋コタロウが叫びました。
僕は急いで鉄条網の下を潜り、猫集りの一番後ろに腰を落着けました。

「ウオホン」

咳払いに、一同は人力車の上を注視しました。
ビロウドが剥れかけた人力車の椅子を背にして座つてゐたのは、本屋の居候猫モフでした。
彼は夜間学校の「人間學」の教授なのです。ふさふさした毛をあちこち汚したままのそのそ歩いてゐる様を見て、或猫は「猫ソクラテス」と呼び、又或猫は「百貨店のモツプ」だと云ひます。然し彼が此界隈で最も博識である事に、誰も異論は有りませんでした。

「デハ諸君、始めやう」

厳かにモフはさう云つて、聞取り難い声でもぞもぞと話し出しました。

  *   *   *   *   *

「人間の生態と其特徴に就ては先月述べたとほりだが、今日は少し踏込んで、彼等の思想に就て考へて見やうと思ふ」
「先生思想とは全体何の事でせう」

書生の家に先月転がり込んだ計りの赤猫トミが手を挙げて質問しました。
モフは少々面倒臭さうな顔をしましたが、顎の毛をもさもさと掻きながら問ひに答へました。

「思想とは、さう、考へを色々に巡らす事、と云つたら良いか。人間とはかく有る可し、と云ふ金科玉条のやうなものについて考へる事も含む」
「デハ猫は鼠を獲る可し、と云ふやうな事でせう」
「イヤさうでは無い。其れは生きる為の手段の選択に他ならない。今少し複雑で、今少し判り難い代物だよ」
「ウヘエ」

トミは奇矯な溜息をついて、へたりと座込みました。大層難しい問題だと思つたのでせう。
するとモフは、人力車の椅子の背に立てかけられている黒板に、白墨で文字を書き始めました。牡蠣の貝殻と微量の水銀で作られているその白墨は、月明かりに映えて銀色に光りました。

「思想/thought」

人間の文字を自由自在に操るのは、此界隈には、モフ以外居ないのでありました。

「例へばだ。此処に一匹のサンマが有るとする。君達はドウ思ふね」

モフは、チヨイとサンマの尻尾を持上げるやうな仕草をしました。すると一同は、

「食べたい」
「頂戴」
「俺のだ」
「イイヤ俺のだ」
「何だとう」
「このう」

と、激しい言ひ争いに成りました。

「コレコレ、例へばの話だ」

モフはさう云つて皆を鎮め、話を続けたのです。

「さう、猫はさうした直情的な感性で物事を計り、考へを巡らす。実にシンプルでストイツク、且つナチユレルだと思ふだらう。然し人間は違ふのだ。判るかね」

むうう、と一同は唸りました。すると、

「ああさう云へば」

荒物屋のニツキが、ぽふ、と肉球を叩き乍ら云ひました。

「こないだうちの家人がサンマを食べたのです。するとお嫁に来たミツさんが、何うした訳か泣き出したのです」
「ほう」
「私の親愛なる達五郎が云ふには、ミツさんは故郷のチヨウシと云ふ処を思ひ出したのださうで」
「へえ」

一同は感嘆の声を上げました。

「さう云ふのなら俺も」

今度は著述家の飼猫タマが腕組をして云ひました。

「先月、家人が皆して金平糖を食べてゐたのだけれど、家の主人は其れをしげしげ眺めて、この金平糖の突起は幾つ有るだらう、これは全部同じなのだらうか、何故同じになるのだらう、などとブツブツ申して居りました」
「何だい其れは」
「変なの」

彼方此方から野次が飛びました。

「ほほう、面白い話が出たのう」

モフは満足げに髭を捻り、軽い咳払ひをしてかう云ひました。

「然様、さうしたものが思想の端緒と成るものだ。人間の歴史とは、さうした思想が入交り重なり合つて形成されて居るのだよ。此を理解せねば、人間を理解する事には成らない」

一同はしいんと成つて仕舞ひました。今日の授業は相当に手強さうだと皆が思つたのです。

「此は猫にとり極めて重要な問題なのだ。我々が人間と生活を共にして早四千年。様々な苦難を潜り抜けて我々は今此処に在る。その根本原因が全体何であるのか。其れは人間の思想と云ふ働きに依る処大であると、儂はさう思うのだ」
「随分と大仰な話だなア」

僕の隣に居た錆猫のテツが呟きました。実は僕もさう思つてゐたのです。
然しモフは更に続けました。

「我々は殆どの生活を人間とその共同体に依存してゐる。であるから、その共同体存立は大変重要な関心事だ。例へば此界隈、此町内、此府下、此国が無くなつて仕舞つたら、我々の生活は基盤を失ふ」
「其んな事が有るもんかい」

誰かが叫びました。

「イイヤ有るのだよ君ッ」

モフは更に甲高い声で云ひました。さうして、黒板に激しく文字を書き殴りました。

「thought→主義/principle≒ideology」

其文字をばん、と叩いて、我々をねめ回し乍らモフは云ひました。

「我々猫にとつて、テリトリイを守る事は重要だ。然し其れは個々の猫が個々に解決す可き問題だ。さうだらう」

一同はウンウンと頷きます。

「若し人間ならかう考へるだらう。何うして自分のテリトリイは狭いのだらう。モツト広く、モツト豊かに、とね。さうして豊かに成る為には何うすれば良いかを考えるのだ。例へば、さう、徒党を組むとか」

ウヘエ、と声が上がりました。徒党を組むとは、猫の最も忌み嫌ふ事だからです。

「徒党を組んでテリトリイを広げてゆき、仲間が多く成れば成る程、衝突は烈しさを増す。終いには何々と云ふ訳の判らぬ主義主張を信奉せぬ者は猫では無い、などと云ひ出すだらう。さうした珍妙な、しかし怖ろしい考へを持つ生物と、我々は寝食を共にしてゐると云ふ訳だ。何うだい諸君」

またもウヘエ、と声が上がりました。
嘘だい、という声も上がりました。

「うちのキイ坊もさうした考へだとは思へないんだけどなア」

また隣のテツが呟きました。僕も家のジンベエ爺さんがさうした考への持主だとは、到底思へなかつたのですが。
然しモフは更に声を張り上げ、話すのです。

「思想が転じて主義主張と成り人々に敷衍すると、時として其れは人間の社会生活を大きく変革する。人間はかく有る可し、と云ふ欲求は、国を根底から覆へす事だつて有るのだ。今此国は戦を始めやうとしてゐる。海を渡つて遠い国まで人と武器を送つて何かしているやうだ。其れは西欧列強から亜細亜を開放する為だと喧伝されてゐる。其処で疑問だ。何故解放するのか? 何故此国が其れに当たる必要が有るのか? 戦で国が滅びた事は歴史上何遍も繰返されて来たではないか。滅び滅ぼす為の思想とは何ぞや? 其れが人間だとしたら、我々は安穏として今過ごしてゐて良いのだらうか?」

一同は少々ウンザリして顔を見合わせ、ひそひそ話を始めて仕舞ひました。

「何の話だらうね」
「ホラあれだ、マンシュウとか云ふ処に開拓民を送るんだよ」
「アア我が家の長男坊は鉄道敷設の仕事に行つたよ」
「石炭を掘るんだつてサ」

「何でえ面倒臭え」

最前列で、八百屋のハチが呟きました。

「何」

モフはギラリと目を光らせ、ハチを睨みました。

「貴様今何と云つた」
「え」
「何と云つたのだ」

ハチはモフの剣幕に気圧されて、尻尾を股の間に挟んで尻込みしました。

「ええと」
「何と云うたかと聞いておる」
「め、面倒臭えと」

「さう、其通りだ!」

モフは大声を張り上げました。

「ヘツ」
「面倒臭いのだよ君! 嗚呼此事が儂の生涯に暗雲を投じて居るのだ。全く以て面倒臭い。アア面倒臭い」

さう云ひ乍らモフは頭を抱へて、人力車の上をヒヨコヒヨコ歩いて居るのです。一同は唖然と成つてモフの様を見て居りました。

「さうだ」

モフの顔が突然輝き出しました。

「其んな事は面倒臭いと、さう人間に知らせてやれば良いのだ! さうだ判つたゾ」

モフは人力車の覆いのテツペンによじ登り、皆に向かって叫びました。

「皆聞いて呉れ! 此ぞ猫の福音! 面倒だアア面倒だ! サア復唱したまへ」

一同はポカンとして居ります。

「人間を導くのは我々猫に他成らぬ。サア叫べ! 面倒だアア面倒だ!」

「あのう」

僕は堪らず立上がつて、云ひました。

「何だね君」
「先生は向学心の余り、肝心な事をお忘れではないでせうか」
「ぬぬ」
「猫は、面倒臭がりな僕達猫は、そんな事を人間に教へるやうな面倒な事はしませんよ」

モフはポカンとして僕を見ました。

「さうだ」
「其通り」
「全くだ」

周りからぽふぽふと肉球を叩く音が聞こえました。僕は少し照れて仕舞つたのです。
すると人力車の上のモフは、ガツクリと膝をついて云ひました。

「ウム確かに君の云ふ通りだ。儂は人間を考へる余り、猫の猫たる所以を忘れて居たやうだな」
「イエ出過ぎた事を申しました。然し先生の講義は有意義だつたと思ひますよ」
「さうかな」
「さうですとも」

少しだけ機嫌をなほしたモフは、姿勢を正して皆に云ひました。

「では、コダマ君の見識有る言葉が出た処で、今日の授業はお仕舞いにしやう。又来月」

「御機嫌やう」
「左様なら」

さうして授業は終了し、僕達は互ひに挨拶を交わして、空地を後にしたのでした。
チリチリと高い音で鳴る鈴を振って終業の知らせをする筈の校長の魚屋コタロウは、人力車の下でグウグウと眠つてをりました。

  *   *   *   *   *

道すがら僕は考へました。
うちの爺さんが、人を傷付け国を滅ぼすような考へを持つてゐるとは思へないけれど。
さういふ事が人間の性のやうな物だとしたら、僕は何うしたら良いだらう。
と云つて、何が出来る訳でも無ささうだ。
せいぜい、爺さんにゴロンとお腹を見せて、撫で回させて上げる位ひだらうか。
さうすれば。
爺さんの中に有る面倒臭い事の幾つか位ひは、何うでも良いと思はせることが、出来さうな気がする。
其れで良いのだ。屹度さうだ。
得心して僕は、少し嬉しく成つたのです。

豆腐屋の親父が竈に火をくべる頃、僕は家へと帰り着いたのです。
下弦の月は、丁度僕の真上にあつて、ぼんやりと面倒臭さうに、光つてをりました。


おしまい




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