第百八十三話 おめでとお(44歳 男 会社員) | ねこバナ。

第百八十三話 おめでとお(44歳 男 会社員)

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「チーフ、良かったですね上手くいって」
「ああ、そうだな」

部下のアサハラ君を助手席に座らせ、俺は高級車を走らせていた。
大口の商談がまとまった。ライバル会社との競争は激しかったが、見事にそれをやってのけた。
やはり俺は出来る男だ。

「これから忙しくなるぞ」
「はい」

アサハラ君は我が社きっての才媛だ。
俺の直属の部下としては申し分ない。

「あの、チーフ」
「何だい」
「お祝いを...しませんか」
「何の」
「今日の成功の...チーフと、私の」

アサハラ君は顔を赤らめてそう言う。
誘惑を禁じ得ないな。
しかし、俺は笑って言った。

「まだまだこれからさ。楽しみはとっておいたほうがいい」
「は...はい、そうですね...」

残念そうに俯く姿もまた素敵だ。
だが俺は。
俺には、果たすべき使命が、他にある。
今日は。
早く帰らねばならない。

  *   *   *   *   *

「すまない、車を戻しておいてくれないか」
「は」
「今日は急ぎの用があるのでね。失礼するよ」

俺は、車のキーをアサハラ君に向かって放り投げた。

「あとはよろしく」
「は、はい、お疲れさまでした」

そして俺は社をあとにした。

「タクシー!」

流しているタクシーを捉まえ、行き先を告げる。

「お客さん、今日は混んでますよ。途中事故らしいですねえ」
「えっ、そうなの」
「ほら、ここ。随分詰まっちゃってるみたいで」

運転手はナビの画面を指差しながら言う。確かにこれは酷い。
このままでは。

「抜けるにはどのくらいかかるかな」
「うーん、三十分はみておかないと」

そんなに待てるわけがない。

「わ、悪いね、またにするよ」
「おやそうですか」

千円札を運転手に渡す。

「へへへ、毎度どうも」

その言葉を聞くか聞かないかのうちに、俺は走り出していた。
急げ。急ぐんだ。
一秒でも早く。

  *   *   *   *   *

地下鉄の駅なんぞ何年ぶりだろう。
俺はぎこちなく列に並んでいた。時計を十秒おきにちらちらと見る。なかなか来ないじゃないか。早くしてくれ。

「...お急ぎのところ誠にご迷惑をおかけいたします。◎◎線◎◎行きは現在、車両故障の影響で運転を見合わせております。復旧までもうしばらく...」

なにっ。

「おいおい勘弁してくれよ。こっちゃ忙しいんだよ」

俺の前に並んでいたスーツ姿の男が不平を漏らす。全くもって同感だ。
しかし、どうすればいいんだ。

「ええと、乗り換えは...と」

その男がケータイをいじっている。違う路線での行き方を検索しているのだろうか。

「あのっ」

俺はたまらず声をかけた。

「え?」
「私、◎◎まで行きたいんですけど、別の路線で行くには、どうすればいいんでしょう」

何せ暫くぶりだからな。路線も時刻表も随分変わっているんだろう。

「ああ、それなら××線で△△駅に出て、それから○○線に乗るといいですよ。ええとちょっと待ってくださいね...。うん、このホームを端まで行って階段を登って、さらにもう一つ■■線のホームを越えると、乗り換えられますよ」
「あ、どうもありがとうございます」
「どういたしまして。あ、乗るなら二両目の中央がおすすめです」
「すみません」

男に礼を言って、俺は走った。
人混みをかき分けて、軽やかなステップで、走る。走る。
階段を二段抜かしで駆け上がる。和服姿のご婦人方の脇をすり抜ける。
エスカレーターなんか、まどろっこしくて乗っていられるか。
俺は颯爽と、走る。走る。
軽快に、走る、はしる...。

  *   *   *   *   *

「ぜえ、ぜええ、げほ、ぜえええええ」

やばい。
息が切れる。
足ががくがくする。
慣れないことはするもんじゃない。
やっぱ年には勝てないか。

「ひい、はあ、ぜえ、ぜえええ」

それにしても。
地下鉄のホームって、こんなに長かったのか。
いかん、嫌な汗が出て来た。
早く行くんだ。重い足を必死に持ち上げて、俺は進んだ。
エスカレーターの端にすがりつき、ようやく乗り換え先のホームに、俺は辿り着いた。

「うわっ」

ものすごい人だ。
運転見合わせの路線から乗り換えようとする人達なんだろう。
みんな考える事は同じみたいだ。
こんなに混雑しているのに、俺は乗れるのか。
いや何としても乗るんだ。乗らなければならない。
ええと二両目の真ん中は...。

「ぜえ、ぜえ、ぜえ」

ホームに電車が滑り込んで来る。
既に車内はすごい混雑振りだ。その様子を見て、さっさと乗車を諦める客もいる。
しかし俺は。

「ま、負けるもんか」

ホームの人混みに向かって、闇雲に俺は突っ込んだ。

「ぐわっ」
「ちょ、ちょっと押さないでよ」
「いでででででで」

悲鳴とも呻きともつかない声たちが、高圧で車内に押し込まれてゆく。

「ぐえええええ」

俺の身体も、その圧力で押し潰されそうだ。

「し、死ぬ」

肋骨が耐えられるだろうかこの圧力に。
いや頑張れ俺。
何としても、乗るんだ、乗り込むんだ。

「お荷物、お身体、引いてくださーい」

引けるかこんな状況で。

ぷしゅーーーーーー

間一髪、俺のスーツの裾を挟んで、ドアが閉まった。
イタリア製の高級スーツが。くそう。
そんな俺の悲しい気持ちなぞに関係なく、電車はゆっくりと、走り出した。

  *   *   *   *   *

「むぐぐぐぐ」

相変わらず、強い圧力が俺の身体を電車のドアに押し付ける。

「ぐえええ」

カーブの度に、俺の身体からは何かはみ出しそうだ。
そして。

「お、降りますっ」
「どわああああああ」

停車の度に、俺ははじき出され、必死になってまた車内に戻る。
もう汗だくだ。
冷や汗と脂汗とその他何がなんだか判らない汗が、だらだらとシャツに沁みてゆく。
俺は、生きて家に帰れるのか本当に。
弱音を吐くな。こんなピンチなぞビジネスの修羅場に比べたら、物の数では。

ごおおおおおっ

電車が急カーブした。

「ちょっと押さないでよっ」

鋭い女性の肘が。

どすん。

「げほおおお」

俺の鳩尾に、見事にヒットした。

俺は崩れ落ちることも出来ない。
ドアに貼り付けられたまま、俺は何度も、気を失いかけた。

  *   *   *   *   *

「はあ、はあ、はあ」

駅からようやく這い出た俺は、目的地へと急いだ。
もうすぐ閉店の時間じゃないか。まずい。
早く行かないと。俺は足を引きずり、死にものぐるいで前に進んだ。
早く、早く。

ぎいいい。

「いらっしゃい...ま...」

店員の女の子が、俺を見て唖然としている。

「コウノさん、どうしたんですか一体...」
「え?」

改めて自分の身体を見てみると。
スーツは皺だらけ、鞄はあちこちへこんでいる。ネクタイはひん曲がり、おまけに髪型はぐちゃぐちゃだ。
きっと顔もひどいことになっているに違いない。

「いやね、電車が、混んでたもんで」
「そ、そうですか...」
「それより、出来てる?」
「あ、はい、もちろん」

店員はにっこり笑って、可愛らしい箱を取り出した。
中を開けると、想像以上に素晴らしいものが。

「お名前もほら、入れておきましたから」
「ああ、どうもありがとう」

これだ。
この日のために俺は。

「ありがとうございましたあ」

明るい声に送られて、俺は店を出た。
ようし、あとは帰るだけだ。急げっ。

ざあああああああああああああああああああ

...なんで雨なんだ。
このタイミングで。

  *   *   *   *   *

「ぷはおう」

雨は烈しさを増している。
俺は箱の上に鞄を乗せ、それを丸ごとスーツの上着で包み、抱えて走っていた。
全身びしょ濡れだ。
いやそんなことはもうどうでもいい。
俺は走った。全力で走った。
交差点の信号がもどかしい。
早く変わってくれ。

ごおおおおおおおおお

ぶぁしゃあああっ

...トラックが。
...大量の水を。
...はねのけていった。

...くそう。
...負けるもんかっ。
...俺は。
...帰るんだッ。

  *   *   *   *   *

暗証番号を押し、マンションに入る。
エレベーターに乗り込むと、俺は無意識に崩れ落ちた。
全くなんて日なんだ。
こんなことなら。
アサハラ君と一緒に祝杯を挙げたほうが。
いや何を考えてるんだ俺は。
俺にはもっと大切なものが。
床に目を落とす。びしょ濡れの靴から、水が床に染み出していくのが見える。

「はあ、はあ、はあ」

息が苦しい。
もう少しだ頑張れ俺。

ぴーん

エレベーターのドアが開く。
俺はずるずると這いずるように、部屋へ向かう。
早く、早く。
一秒でも早く。
もう少し。

がちゃり。

「み、ミクちゃ~ん」

「みゃ~」

「パパ、パパ帰ったよおおおお」

「うみゃ~ん」

とことこ駆けてくるその足音。
つぶらな瞳。

「ミクちゅわ~~ん」

家に上がろうとしたその時。

びしょ濡れになった床が。

滑った。


「のわっ!」

俺は放り投げてしまった。
鞄と。
上着と。
あの箱を。

「う、うわあああ」

倒れながら。
俺は見ていた。
スローモーションで。
箱が落下し。
蓋が開き。
中身が。

落ちてゆく。

「だ、だめええええええ」

ぺしょ。

ずでん。


「む、ぐ、うぐううううう」

額と鼻をしこたま床に打ちつけた。

「は、はれはひ」

そうして俺は、前を見た。
目の前には。

ぐっちょりと潰れた、猫用ケーキ。
一歳を迎えたミクのお祝いケーキ。
ちゃあんと「ミクちゃん1さいおめでとう」と書いてある。
半分は崩れて読めないが。

「ひ、ひえええ」

俺は手を伸ばす。

「うそおおおお」

無残なケーキに向かって。
すると。

「にゃむにゃむ、にゃむにゃむ」

シャム猫ミクは。
俺の最愛のミクは。
崩れたケーキを。

「た、食べてる」

玄関で。
びしょ濡れのまま。
髪を振り乱して。
鼻血をちょっと垂らしたまま。
俺は。

「パパ、パパうれしいよお」

俺は、ちょっと泣いた。

「おめでとお」

がくり。


おしまい




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