第百六十八話 <回想録風>キクと桜 | ねこバナ。

第百六十八話 <回想録風>キクと桜

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「キクは、お国の為になるんですよ」

と母からその話を聞いたとき、私はまだ国民学校の一年生でした。
はじめ、母が何を話しているのか、私には判りませんでした。しかし、早く兵隊さんになりたいと毎日言っていた気の強い兄が(当時高等科にあがったばかりでした)、神妙な面持ちでキクの背中を撫でていたのを見て、これはただ事でないということだけは、判ったのです。
村の家々から、犬や猫が連れ出され、神社の境内に集められることになっていました。
いわゆる、軍事供出です。

キクは、白と黒のぶち猫でした。顔の上半分は黒でしたが、額のあたりに菊の花のような模様があるので、キクと名付けたのです。
その頃我が家は、何処にでもあるような普通の農家でしたから、猫はネズミをとってくれたので重宝でした。それにキクはとても気立てのよい猫で、気の弱い私が虐められて帰った日など、ずっと私に寄り添ってくれました。寒い冬などは私と兄の間で、冷えた身体を温めてくれたものです。
そのキクが、兵隊さんのところに行くんだと言われても、いまひとつ私はピンときませんでした。ただ言い知れぬ不安にかられて、呆然と、母の話を聞いていたのだと思います。
丁度、生んだ仔猫がすぐに死んでしまったので、キクは落ち込んでいるように見えました。

「僕が持っていくよ」

と兄が言い、麻の袋を持ってきました。するとキクは、すたすたと縁側から外に出て、縁の下に潜り込んでしまったのです。

「こらキク! 出て来いよ」

兄の呼びかけにもキクは応じません。やはり何か不安を感じたのでしょう。
私も縁の下を覗いてみましたが、きらりと光る眼が見えるだけでした。

「手間をかけさせやがって」

そう言って兄は縁の下に潜っていきました。私はそれをただぼんやりと見ていましたが、

「チヨちゃん」

と、呼びかけられたのに気が付きました。
声のするほうを見ると、鍛冶屋のトンちゃんが息をきらせて走ってきたのでした。

「どうしたの」
「あのね、ハチマンさんのとこにね、犬と猫がね、いっぱい」
「いっぱい」
「集められてるの」

今にも泣きそうな顔でトンちゃんは言いました。
見ると、小さな袋を抱えています。その袋は、もぞもぞと動いているのでした。
私は何やらいやな予感がして、トンちゃんを家の裏に連れていきました。

「これ何」
「これ、うちのミケが生んだ仔猫なの」

袋の紐をほどくと、中には二匹の小さな猫がいました。ようやく目が開いたくらいだったと思います。真っ白と真っ黒の、かわいい猫でした。

「連れてきたの。だってそうしないと」
「そうしないと、どうなるの」
「皮をはいで、肉にするんだって」

私は仰天しました。
兵隊さんのところに、というのが、単に連れていくのではなく、毛皮と食糧として、ということが初めて理解できたのです。

「シイちゃんちの犬も、連れてかれたんだって。おっかないおじさんが、無理矢理引っ張ってったんだって」
「うそ」
「うちのミケも連れてかれたんだよう」

トンちゃんはべそをかきました。

「じゃあこの子たちも」
「見つかったら、肉にされちゃう。どうしよう」

私はどうしていいか判らず、ただおろおろするばかりでした。
その時。

「なあう」

私の足下に、キクがやって来ました。
うまいぐあいに、兄の追跡を逃れたようでした。

「なあおう」

キクは、トンちゃんの持っていた袋を、がりがりと引っ掻きました。そうして、中に仔猫がいると判ると、その顔をべろべろと舐め始めたのです。
私はとっさにひらめきました。

「にげよう」
「え」
「キクは、まだおっぱいが出るもん。この子たちといっしょにしておけば」
「ああ」
「キクとこの子たちを連れて、にげよう」

私は急いで、おじいさんの使っていた魚籠にキクを入れて担ぎ、

「行こう」

トンちゃんの手を引っ張って、裏山へと向かいました。

「チヨ! どこへ行くんだ」

兄の声が聞こえましたが、私は構わず走りました。キクの身体が、とても重く感じました。
少し山を登って、竹藪の中から家のほうを覗くと。菜っ葉色の服を着て、大きな袋を担いだ男が二人、家に向かって歩いてくるのが見えました。

「いそがなくっちゃ」

私達は、キクと仔猫を抱えて、無我夢中で山道を登りました。

  *   *   *   *   *

いくら急いだといっても子供の足です。そう遠くまでいけるはずがありません。
大人達が追いかけてくれば、いずれ捕まってしまうであろうことは判っていました。
しかし、子供には子供なりの知恵というものがあるのです。道を外れて藪を進み、倒木のかげに隠れて休みながら、私達は遠くへ、できるだけ遠くへ逃げようとしました。
かれこれ二時間も歩いたでしょうか。私達はへとへとになって、山の斜面を登っていました。

「チヨちゃん、足がいたいよう」

トンちゃんが言いました。私も足が張ってしまって、ほとんど歩けなくなってしまいました。

「どうしよう」

私はその場にへたりこんで、呟きました。こんなところにキクを置いていけない、どこかもっと安心な場所に行かないと。子供心にそう思っていました。
しかし、どこにそんな都合のいい場所があるというのでしょう。この山の中に。
闇雲に逃げてはみたものの、これからどうしていいか、私にはとんと判りませんでした。
キクは相変わらず、魚籠の中で大人しくしています。仔猫たちもまだ元気なようです。

「とにかく、もう少し行こうよ」

私がそうトンちゃんに言った時、

「ないをしとるかあ」

野太い声がしました。
びっくりして声のする方を見ると、頭に手拭いを巻いた、髭もじゃで真っ黒な顔をした男が、山の斜面の向こうから私達を見ていたのです。
村の人から嫌われている、炭焼きのゴヘエでした。気難しくてすぐ怒る人で、よく村の人と喧嘩をしていたのを見ていました。
噂では、子供を捕って喰う、なんて言われていたのです。ですから私達は、恐ろしくて声も出ませんでした。

「ないをしとるかと、きいておる」

がさがさとこちらに近付きながら、ゴヘエは目をひんむいて私達を見ました。
トンちゃんは仔猫の入った袋を抱えて、私にじりじりと寄り添いました。私も泣きそうになりながら、キクの入った魚籠だけは離すまいと、しっかりと胸に抱きました。

「おんしら、こいなとこおにおると、やまのかみさぁに、くわれてまうぞ」
「ひいいいい」

トンちゃんはたまらず泣き出しました。私は泣きたくなるのをぐっとこらえて、ゴヘエをにらみ返しました。

「そいは何じゃあ」

ゴヘエは、もぞもぞ動く袋に手を伸ばしました。私は必死にその手を払いのけ、トンちゃんと仔猫をかばおうとしました。

「ぴゃう」

仔猫の鳴き声がしました。すると、

「なおう」

それに応えるように、キクも鳴きました。

「なんじゃあ、猫かえ」

そう言ってゴヘエは、ひ、ひ、ひ、と笑い、

「こいなとこまで来てえ、ほれ、足がいたいじゃろ」

私達の足を、手拭いで拭いてくれました。実際、私達の足は草履履きで、あちこちで転んだり葉っぱで切ったりして、擦り傷や切り傷だらけだったのです。

「ついてこお」

足を拭き終わると、そう言ってゴヘエは言って、がさがさと斜面を登って行きました。
私達は顔を見合わせ、ほんの少しだけ安心して、ゴヘエのあとに付いて行ったのです。

  *   *   *   *   *

「おうら、おあがり」

ゴヘエは私達に、見事な木彫りの茶碗で茶を振舞ってくれました。
私達がこんなところまで、何をしに来たのか、ゴヘエは訊こうとはしませんでした。だから私は安心して、キクを魚籠から出し、仔猫と対面させることにしたのです。
キクは早速、二匹の仔猫を丁寧に舐め回し、ごろりと袋の上に横になりました。仔猫はちゅうちゅうと、安心したようにキクのおっぱいを飲んでいます。

「おんしら、どこぃ行く」

キクと仔猫の様子をじいと見ながら、ゴヘエは私に訊きました。

「この子たちが、暮らせるところ」
「ふうむ」

私の応えに、ゴヘエは少しの間考えを巡らせているようでした。もちろん私に当てがあろうはずもありませんから、私はゴヘエが、何処かいい場所を教えてくれないかと、少々期待していたのです。

「そうだのう」
「ここじゃ、だめなの」
「ここはだめだのう」
「どうして」
「はらがへったら、わしぁ、くうてしまうかもしれん」

そう言ってゴヘエが、ひ、ひ、ひ、と笑ったので、トンちゃんはびっくりしたのです。

「しかし、そうだのう、この先のお社なら」

あごをじょりじょりと撫でながら、ゴヘエは炭焼き小屋の脇を見ました。

「あすこなら、隠れるにはいいかもしれんのう」
「おやしろが、あるの」
「ああ、とっくのむかあしに、すてられたお社が、あるで」
「へえ」
「お社のありかは、もうわししか知らんでのう」

私とトンちゃんは顔を見合わせて、喜びました。

「じゃがのう」

するとゴヘエは、うつむいて何か言いづらそうにしています。

「なあに」
「やまのかみさぁはのう、女の子がきらいじゃ」
「えっ」
「とくにのう、かあいい女の子が、きらいなんじゃあ」
「どっ、どうして」
「やまのかみさぁはの、えらい不細工での、やきもちをやくんだと」

何だか笑い話のような伝承ですが、その時のゴヘエの顔は、とても真面目なものだったのです。

「じゃから、その猫らが、これから無事でおられるかどうかは、わからんのう」

ひどく申し訳なさそうなその声に、私は逆に、申し訳ないような心持ちがしたのです。

「だいじょうぶよ」

トンちゃんが元気に言いました。

「だってさ、トメなんかさ、あたしたちのこと、ブスブスーってさ、ばかにするもん」
「そうだよねえ」

そう言って、私とトンちゃんは笑いました。

「そうかのう」

ゴヘエはまだ不安そうでしたが、私達は、お社の場所を教えてくれと、せがんだのでした。
よろよろとゴヘエは立ち上がると、炭焼き小屋の脇の道を示し、行き方を教えてくれました。

「ようお願いするこんだ」
「うん」
「ありがとう」

  *   *   *   *   *

ゴヘエの炭焼き小屋からお社までの道程は、長くて険しいものでした。
しかし私達は、猫達が助かるという希望で一杯だったので、そう辛くはなかったと記憶しています。
坂を、崖を、沢を、上ったり下りたり。何度それを繰り返したことでしょう。

「あった」

私達の目の前に現れたのは、山肌に穿たれた洞穴の中にひっそりと立つ、小さなお社でした。
その脇には、うす紅色のヤマザクラが、咲いていました。まだほとんど緑がない山の中で、それは大層綺麗に見えました。
お社の柱は傾き、扉は歪んでいましたが、雨露くらいはしのげそうな処です。私達はまず、仔猫を袋から取り出し、その袋をお社の中に敷いて、その上にキクと仔猫たちを乗せました。
キクはまるで此処は私の家と言わんばかりに、どっしりと腰を落ち着けました。仔猫達も満足そうに、キクのおっぱいにしがみついています。

「よかったねえ」

私とトンちゃんはそう言い合い、山の神さまにお祈りをすることにしました。

「どうぞ、キクたちが元気でくらせますように」
「大人たちに、みつかりませんように」

すると突然、空が暗くなったような気がしました。
ごろごろと雷鳴が聞こえ、風がごうごう、と吹いてきました。
変わりやすい山の天気ですから、今考えればさほど珍しいことではないのかもしれません。しかしその時、私達は、ほんとうに山の神さまの祟りではないかと、そう思ったのです。
しかし、お社の中のキクたちは、妙に落ちついて見えました。だから私は、

「行こう」

とトンちゃんをせき立て、その場を離れることにしたのです。
すると、いきなり激しい雨が降り出しました。走って逃げながら、私は何度か、お社のほうを振り返りました。
雨に煙って、お社は黒っぽく、そしてその脇のヤマザクラが、うす紅色に滲んで見えました。

ばりばりばりばり、と頭の上で大きな音がして、私はそれきり、気を失ったのです。

  *   *   *   *   *

気が付くと、私は家の布団で寝ていました。
後から聞いたのですが、私とトンちゃんはゴヘエに抱えられて、山を下りてきたのだそうです。父はゴヘエに何かお礼をしようとしましたが、ゴヘエは頑としてそれを受け取らなかったといいます。
目が覚めてすぐに、私は酷く叱られ、もうあの山へ入ってはいけないと、厳しく言い渡されました。どういう訳か、キクのことは誰にも、何にも訊かれることはありませんでした。
ただ猫は山へ逃げたと、そういうことになったようです。

それ以来、あの山に行くことはありませんでした。猫達はもちろん、炭焼きのゴヘエにさえ、私は会うことはなかったのです。
中学校を出てすぐに私は都会に働きに出ました。以来、あの家へ戻ることは、ほとんどなくなってしまいました。

あのキクを置いてきたお社のことを、私はほんとうに、すっかり忘れてしまっていたのです。

  *   *   *   *   *

今年になって、偶々私は故郷の郷土史編纂を手伝うことになり、数十年ぶりに生まれ育った家に戻ってきました。
生家の近くを高速道路が通り、山には林道が整備されていました。その信じられない光景に私は驚きましたが、郷土史家のS先生から話を聞いたときには、もっと驚きました。

「この林道をいったところに、由来の判らない社があるんですよ」

その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、あのお社の風景が、ゴヘエの炭焼き小屋が、蘇ってきたのです。

当然のことかもしれませんが、風景はすっかり変わっていました。
トンちゃんと大冒険をしたあの山々を、道路が残酷に横切っている。私にとってそれは少し寂しいものでした。
私はひとりで車を走らせ、S先生に教えられた曲がり角を見つけて、車を駐めました。

細いけもの道を、杖をつきながらゆっくりと下りてゆきました。
次第に辺りは鬱蒼として暗くなりました。私は必死に記憶の糸をたぐりました。大きな岩の上を渡って沢へと下り、その手前でまた少し上がる。
年を取った足腰には、辛い道が続きました。

ゆっくりと坂を上っていると、向こうにうす紅色の光が見えました。木漏れ日がちらちらと、うす紅色の何かを照らしていました。
それに吸い寄せられるように上っていくと、見えたのです。
山の斜面に穿たれた洞穴、そして、小さなお社が。それは想像していたよりも、もっと、もっと小さなものでした。

ヤマザクラの花が、うす紅色の光を振りまいていました。
突然私の頭の中を、幼かったあの日が駆け巡りました。
キクを抱いて必死に山道を走った、あの日の光景が、浮かんでは消えてゆきました。

キクはあの後どうしたでしょうか。
私に棄てられたと思ったでしょうか。
ちゃんと長生きしたでしょうか。
それともタヌキに食われてしまったでしょうか。
猫達は幸せだったでしょうか。

私は湧き上がるものを抑えることが出来ず、ただその場に蹲って、おいおいと泣くほかありませんでした。

  *   *   *   *   *

沢の近くでちいさな花を摘んで、私はお社に供えました。
あの日の山の神の怒りは、人間そのものに向けられたものではなかったか。そんなことを考えていました。いのちを蔑む人間への怒りなのではないかと。
ぼんやりお社の中を見ていると、そこにまだ、キクと仔猫達の姿があるようで、私はしばらく、その場を離れられずにいました。

「じゃあ、帰るわね」

私はそう言って立ち上がり、ゆるゆるとお社を後にしました。
もう来ることもないでしょう。この世から旅立つ前にここに来られたことは幸いだ。そう思いました。

「なあおう」

私はびくっとして振り向きました。
見ると、お社のすぐ脇で、カンザクラのうす紅色の光を浴びて、立っていたのです。
一匹の猫です。
白と黒のぶち猫。キクとよく似た、すらりとした猫でした。

「なあおう」

真逆そんなことがあるかと思いました。
いえ、偶々そこに、迷い込んだ猫がいただけなのかもしれません。
しかし私は、キクの忘れ形見が間違いなくそこにあると思いました。
そう思いたかったのです。

「キク」

私は一歩、猫に近付きました。
すると猫は、じりじりと後ずさりしていきました。
私をじっと見つめたまま。
私を歓迎しては、くれなかったのです。

「そうねえ、私はもう、此処に来るべきじゃないわね」

私は声に出してそう言いました。
悲しいと思いました。しかし受け容れるべきだと思いました。

「ひとつ教えてちょうだい。キクは。キクは幸せだったかしら」

「なあーおう」

猫は高く鳴きました。
私の乾いた頬を、ひとすじ、濡らしてゆくものがありました。
 

 

 

おしまい

 

 

 


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