第九十九話 <随筆>猫とは | ねこバナ。

第九十九話 <随筆>猫とは

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夢を見た。

私は何かの仕事をやり終えた後だった。
古い日本家屋の縁側から室内を見ると、そこにはマルコらしき猫がいた。

「行ってくるね」

そう私は猫に声をかけ、雨戸を閉めた。
そのすぐ隣には。

昔住んだ、古い一軒家のベランダがあった。
私はからからと、少し開いていたベランダの窓を開けた。
畳敷きの部屋の中には。
先代猫ゴン先生が、横たわっていた。

私はゴン先生ににじり寄った。
毛が所々薄くなって、痩せ細ったゴン先生を見て、私は悟った。

もう長くはない。

震える前足で、ゴン先生は目の回りの目脂を取ろうとしていた。
私はそうっと、ゴン先生の目の回りを掃除した。
傷付かないように。
崩れてしまわないように。
それほど、ゴン先生の身体は、華奢で、脆かった。

私はゴン先生の背中を撫でた。
私は早く行かなければならない。
しかし。
彼をひとりにしては行けない。

あれこれ考えた。
ゴン先生は、やっと開く眼で、私を見つめた。

彼の眼に、ちいさな光を見た。

私は決めた。
もう何処へも行かない。
ゴン先生と此処に居るのだ。
見届けるのだ。

私はゴン先生の背中を撫で続けた。
ふたりきりで暮らした古い一軒家の畳の上で。
私はゴン先生を撫で続けた。
消えてしまわないように。
過ぎ去ってしまわないように。
そろそろと、ゆっくりと、撫で続けた。

辺りは、白い光に包まれていった。

  *   *   *   *   *

目が覚めた。

辺りはまだ暗かった。
妻が隣で寝息を立てていた。
私は、天井をぼんやりと見つめた。

唇が震えた。
胸の奥から、何者かが押し寄せた。

悲しかった。
何故彼は、あんな姿で、私の前に再び現れたのか。
あれでよかったのか。
私は彼に、何かしてやれたのか。彼は幸せだったろうか。
私は。

悔恨と無念とが、激しく押し寄せた。
もう駄目だ。

私は、毛布に顔を埋めて、嗚咽を漏らした。
妻を起こさぬように。
そして、私の嘆きが、これ以上広がらないように。
涙がだらだらとだらしなく流れた。
しゃくり上げる度に、私の喉が、ひいひいと鳴った。

  *   *   *   *   *

どのくらい、そうしていただろうか。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
そこには。
奇妙なものでも見るような、不思議な表情をしたマルコが座っていた。
私の鼻先を、ちょいちょいと前足で触る。

私は毛布の端を持ち上げた。
マルコは、おずおずとその中に入った。
私の右脇腹。
ゴン先生が好きだった場所だ。

程なくしてマルコは、ふるふると喉を鳴らし始めた。
この瞬間、私に全幅の信頼を寄せ、温もりに包まれて眠ろうとしている。
私の中の悲しみは、次第に薄れていった。
私を頼る存在がある限り、私はそれに、何かしらで応えねばならない。
たとえどんなに情けなくとも。
私のありったけで。
応えねばならない。
そう思ったのだ。

マルコの喉の音が小さくなってゆくのを感じながら、
私は再び、眠りに落ちていった。

  *   *   *   *   *

おはなしの中でも紹介したことがあるが、寺田寅彦は、猫についての随筆を幾つかものしている。
優れた物理学者であり又稀代の文筆家でもあった彼は、猫との出会いと、それに魅せられてゆく過程を丹念に、そして情感を滲ませて描写している。
彼は随筆「子猫」の末尾で、こう述べている。

「私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない」

寺田の言うとおり、人間は「尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎む」生き物なのだ。
地球上で唯一、この得体の知れない情念に突き動かされ、無闇に傷付き傷付けられる生き物なのだ。
その呪縛から解き放たれるとき、人間は人間でなくなる。寺田は自身が超然たる位置を占めることはないと自覚し、羨望しつつも一線を画す。そこには「孤独と悲哀」しかないと考えるからだ。
孤独と悲哀を猫は感じることがあるのだろうか。そんなことはあるまいと笑い飛ばす人があるかも知れない。
しかし、猫がときどき、遠くをじっと見つめて微動だにしないとき、その先に何があるか知れないとき、彼等の眼に私はそういうもの、孤独とか悲哀といった類のものを感ずることがある。
それはやはり、私の心映えなのだろうか。
そうだとしたら。

  *   *   *   *   *

首斬り役人長内半兵衛に言わせた台詞がある。

「恨みを持つのは、人です。猫はその恨みを映す鏡なのですよ」

これは私の、ひとつの答えである。
古来人間は、さまざまな業を猫に背負わせてきた。
猫は生死の境を自由に彷徨い、神と悪魔の使いとなり、宗教や社会システムの方便となり、果ては人種や身分制度まで背負った。人を恨み、喰らい、そして時に愛し、守り、育んだ。
それは、猫という存在が、あまりにも人間の精神を、強く反射するためではなかったか。

犬、馬、牛、羊、鶏、兎、狸、狐、蛇。人間と関わりを持つ総ての生き物は、それぞれの属性を与えられ、人間の精神を反映しているといえる。
しかし猫ほど、人間に近しい存在であるにもかかわらず神秘性を維持している生き物はいない。それはとりもなおさず、彼等が人間の精神をあまりに反射しすぎて、怖れを抱かせる存在だからだ。
「お前はこんなものさ」と宣告されることほど残酷で、恐ろしいものはない。

何故、このちいさな生き物に、そんなことが可能なのだろう。どんな生物学的解釈も、この謎に答えてくれることはない。
ただ判っているのは。
例え彼等が残酷に反射する鏡であったとしても。
彼等は人間の精神を育んできたということである。
そしてこれからも育み続けるであろう。さまざまなかたちを伴って。
痛々しく。禍々しく。そしてあたたかく。
それは、人間と猫が抱えた業のようなものではないだろうか。決して辛いばかりでない、共に歩んで行く道のような。
なにしろ、喜ばしいことに私は、寺田が感じたような「純粋なあたたかい愛情」を、彼等から確かに受け取っているのだ。
心映えというだけでは済まされない何かを。
冒頭に述べたゴン先生の夢を見た後、私は一層、その思いを強くしたのだ。
この感覚は、決して、私だけのものではないはずだ。

  *   *   *   *   *

猫に対する私の思いを、ただつらつらと書いてみた。
たった十九年ばかりの猫との付き合い、そしてたった百話の物語。
それで総てが判るはずもない。
しかし、こうして綴ってきた物語のひとつひとつは、彼等との生活の一分一秒は、疑いなく、猫という存在によって照らされた私の生きざまそのものなのだ。
そして、その私の心映えに過ぎない物語を読んで、少なからぬ共感を持ってくださる方がいることは、私にどんなに勇気を与えてくれるか知れない。
それとも、彼等の「純粋なあたたかい愛情」が、彼等の姿をとおして、読者の皆さんに伝わっているのだろうか。

もしそうなら。
私は猫達に、どんな恩返しが出来るだろう。
日々を精一杯生きる。当面はこれしか、私には出来そうにもないのだけれど。


明日も私はキーボードに向かうだろう。
猫という鏡に、私の総てを、投げかけるために。


おしまい




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