第七十九話 <随筆>雑感:佐藤垢石『岡ふぐ談』を読んで | ねこバナ。

第七十九話 <随筆>雑感:佐藤垢石『岡ふぐ談』を読んで

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ネット上の図書館「青空文庫」で佐藤垢石『岡ふぐ談』を読んだ。名随筆家として知られる彼の読み物を、私はとんと読む機会が無かった。豪放磊落で多趣味、酒も食にも一家言ある彼には、少しは興味を持っても良さそうなものであるが、どういう訳かその気にならなかったのである。
しかし今回、やっと手始めに、ある決意を持って、ひとつの作を読んでしまおうと思った。そして今、読み終えた次第である。
何故私にこんな決意が必要であったのか。
それは、本作『岡ふぐ談』には、猫を食う話が描かれているのである。「岡ふぐ(丘河豚)」とは、猫肉の異名だそうである。

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人間は雑食性の動物である。古来人間は様々な物を食して来た。特に動物性蛋白質は珍重され、祝の膳には欠かせない物とされてきた。日本の場合は魚を用いる場合が多かったが、雉、雀、猪、鹿、兎、熊などの野生の鳥獣、また鶏に代表される家畜も供された。
そして、飢餓状態に陥れば、手当たり次第何でも食う。世に有名な天明の大飢饉の様を伝える史資料を見れば、草の根や土壁、果ては病死した人肉にまで手を伸ばさなければならない程の極限状態に眼を覆いたくなる。そして、先史時代より連綿と続いて来た極限状態の連続により、人々は「食える」ものと「食えない」ものを峻別してきた。その結果「食える」ものを「美味く」食う事は社会の発展と共に文化の一部となり、人々の生き方を決定する一要因となっていったのである。全世界をくまなく調べれば、歴史上、どんな種類の動物も一度は、人間の食欲を満たすために命を奪われた事があるに違い無い。

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『岡ふぐ談』が書かれたのは昭和二十年十一月、終戦間もない時期だ。この随筆はこんな書き出しで始まる。

「今年は、五十年来の不作で、我々善良なる国民は来年の三月頃から七月頃にかけ、餓死するであろうという政府の役人の仰せである。そんなことなら爆弾を浴びて死んだ方がよかったというかも知れないが、運悪く生き残ってしまったのであるから、なんとしても致し方がない。幸い、防空壕を埋めないで置いてあるから、いよいよ飢餓が迫ってきたならば壕の底へ長々と伸びて、いよいよそのままとなったら、簡単に上から土をかけて貰うことにしよう。」

何ともさっぱりとして潔いものだと感心していたら、蝗を食う話、そして猫を食う話へと飄々と移ろってゆくのだから始末が悪い。そして「老友」の猫を捕獲する話、そして彼の持参した猫の肉とやらを(実際にそうかどうかは判らない書き方をしている)すき焼きと鍋にして食うのだが、その描写が誠に無邪気なのである。ここまで無邪気で通されると、流石の私も呆れ顔を作る外無くなってしまう。彼等にとって猫は、まるで川で釣る鱒か鮎のような存在であるらしい。
食糧難の時世を軽く笑い飛ばすような勢いが、この文章にはある。しかし、本当に時世を笑い飛ばすエネルギイとして幾匹かの猫が食卓に上ってしまったのだとしたら、それは何か、大層気の毒な話のように、私には思えてしまう。

さて著者によると、猫について『本草綱目』には「甘酸にして無毒とあって、食法が書いてない」し、『本朝食鑑』にも「その味甘膩なりとある」と紹介するだけで調理法の記述があるか定かでない。つまり、「食えるとは聞くが試して見ることはなかなか出来ない」という代物であろう。事実、江戸時代には猫は鼠害から人間の豊かさを守る重要な労働力であったのだから。
しかし、日本各地に猫を食う、或いは食ったという習慣・経験が存在したことは事実である。その話を私が最初に聞いたのは妻からである。彼女は以前、新潟県の某村での取材の際、昔猫の肉を食ったという年寄の話を聞き書している。戦後間もない頃であったそうだ。新潟の山奥は今でこそ米処に隣接し食が豊かに見えるが、昔は極めて貧しい地域だったようである。狸や雉、或いは鶏や兎や犬と同様、猫もまた人間の栄養補給源として命を奪われのだ。
犬や猫でなくとも、庭でとことこ歩いている鶏を「つぶして」来客時の夕食に供するなどという事を想像するだけで、卒倒しそうになる人も多いはずである。しかしこんな事はつい最近、ほんの五十年程前までは普通に行われていた事なのだ。日々の営みと「屠畜」という行為は、全く同じ時空間にあったのである。
翻って現在はどうか。多くの人が知らない間に膨大な数の家畜が屠殺され、切り分けられて小綺麗なパックに収まり店頭に並ぶ。これは極めて奇妙な事と言わねばなるまい。命と食という肝心なラインが、ものの見事に断ち切られている。
もっとも私は、自分を含め肉を喰らう人の全てが、屠殺される家畜の姿を目の当たりにしなければならない、とは思わない。ただ、「今自分が喰らっているものは何なのか」という事に、いま少し真摯であるべきなのではないかと思うのである。
「ブタがいた教室」という映画があった。あれが「猫がいた教室」であったらどうか。いや猫も狸もブタも同じではないのか。命を喰らって生きている。その事を自覚するだけでも、私は意義深い事だと思う。感謝とか懺悔とか、そういう言葉で表せないもの。命に対する真摯な姿勢が、やはり芽生えるに違い無いからである。
そして私は、進んだ文明という優越性を誇示する為に鯨や海豚その他の海洋生物を神聖視する向きには賛同出来ないし、犬や猫を食する習慣のあるアジアの諸地域の人々を軽々しく批判する事も出来ない。命の価値を文化や宗教や生活水準の優越のみで計ってはいけない。しかし切実であるからといって命の大量消費に無批判である訳にもいかない。こう思考を巡らせてゆくと、『ひかりごけ』に代表されるカニバリスムを考えなくてはならなくなる。これは今の私には少々重すぎる。

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思考に疲れてふと足元を見る。マルコが日だまりの中に丸まって寝ている。
いま少し冷静沈着になってしげしげとマルコを眺める。しかしどう見ても、マルコよりは私の太股や脛のほうが美味そうである。マルコが飢えたら私の脛を一本切り落としてあげても良かろうとさえ思える。
生きる気力が少しばかり衰えている今は、自分が生き延びる事よりも妻やマルコが生き延びる事を考える。そのために自分の身体を喰らって貰うのは決して悪い事とは思われない。しかし極限状態になった時自分がどう行動出来るかは、全く見当が付かない。家の壁や畳をむしり喰らう程になった時、目の前のマルコがロースト・チキンに見えたらどうしよう。
そうならない世の中でずっとあり続けて欲しいものだと切に願う。そして、自分が生きるために貪欲になるよりも、出来れば自分の大切な人々が普通に食べ、生を全う出来るよう、私は何かしらするべき事があるように思えるのである。

今日の夕食は挽肉で作るナスのグラタンである。今日はどうやら、マルコがロースト・チキンに見える危険はなさそうだ。


おしまい




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