第四十七話 昔の男(40歳 女)
ざーーーーーーーーーーーーー
「はあ、はあ、はあ、んぐ、はあ、はあ」
ずざざっ。
「...野郎、何処行きやがった!」
「おい、お前は向こうを探せ、俺達はこっちだ」
「おう」
「はあ、はあ、はあ」
ざーーーーーーーーーーーーー
がらんがらんがらん
「はあ、はあ、くそう、はあ、はあ」
ごそごそ。
「はあ、はあ、はあ、ふう~」
「...おい、こっちで音がしなかったか?」
「...そうか?」
「うっ」
ざーーーーーーーーーーーーー
じゃり、じゃり、じゃりじゃり
「...こっちだ。確かに音が...」
ざーーーーーーーーーーーーー
じゃり、じゃり、じゃりじゃり
「ぴきゃっ」
「う」
「ぴきゃん」
「...そこか!!」
「こら、しっ、しっ!」
「ぴみゃーん」
ざーーーーーーーーーーーーー
「...何だ猫かよ。ったくもう、面倒なこった」
「...おら、さっさと行くぞ」
ざーーーーーーーーーーーーー
ざったったったったったっ
「ぴきゃん」
「へ、へへへ、た、助かった」
「ぴみゃー」
「おう、ありがとよ」
ごそごそ。
「ほら、ここに入ってろ」
「みゃん」
「うし、行くか...」
ざーーーーーーーーーーーーー
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
* * * * *
ドブネズミみたいに汚れて、ずぶ濡れになって、あいつは私の部屋のドアを叩いた。
あたしがドアを開けると、あいつはそのまま、崩れ落ちた。
崩れ落ちたその、コートの懐から、ドブネズミよりも小さな、猫が出てきた。
細かく震えながら、あたしを見て、鳴いた。
「ぴきゃう」
* * * * *
全身打ち身と擦り傷だらけ。おまけに歯が一本折れている。
どんな小狡い事をしでかして、逃げて来たものやら。
この男は何時もそうだ。後先顧みず、自分の都合ばかりで他人を騒動に巻き込む。
そして、この小さい被害者...仔猫は...どうしたものか。
家にあったツナ缶を平らげると、炬燵の脇で丸まって寝てしまった。
この男も、この仔猫も、まるで安心しきって、静かに寝息をたてている。
不意に、あたしは可笑しくなった。
あんなに虚勢を張ってたあの男が。
啖呵を切って、あたしの許を飛び出した男が。
こんな小さな猫と、何も変わらないじゃないか。
こんなでかい態をして。
「ぷっ...くふふふふ」
「そんなに可笑しいかよ」
目が覚めたらしい。
「可笑しいよ」
「他人事だと思ってよ」
「他人事だよ」
「ふん」
「あつっ、ててて...」
「ふん、ざまぁないね」
「うるせぇ」
あたしはでかい湯呑に熱い茶を注いだ。
「飲むかい」
「ああ」
身体を起こすのも大儀そうだが、幸い骨は折れてなさそうだ。
ずずず。
「ほう」
急に生き返ったような顔をする。
この様子なら、心配いらない。
「これ...手当、あんたがしてくれたのか」
「さあね」
「...ちぇっ」
外は、まだ雨が降っている。
* * * * *
近くの大きな薬局で、猫の餌とトイレと砂を買ってきた。
狭い台所の隅っこに、猫のトイレを据え付ける。
仔猫はむっくり起き上がって、トイレに入り、すんなりと用を足した。
あいつは、天井を見つめたまま、動こうとしない。
「ぴゃう」
仔猫があたしの肩によじ登ってきた。
細くて尖った爪が、肩に食い込む。
「いた、いたたたた、こら、そんなふうにしなくても、落ちやしないよ」
あいつは、あたしと猫がじゃれ合うのを、ふと見た。
「どうすんだ?」
「何を?」
「猫さ」
「どうって、勝手に持ち込んで来たのは誰だい」
「...」
「こんな雨の中、放り出す訳にいかないよ。こんなに小さいんだから、すぐ死んじまうよ」
「そうだな」
「...おおかた、このチビに助けられたんだろ」
「...」
「ふん、図星だね」
「何でも判ったような口利くんじゃねえよ」
あいつはじろりと、あたしを睨みつけた。
「そうやって、何でもお見通しって態度が、ムカツクんだよ」
「だったら、どうするんだい?」
あいつはいきなり起き上がって、あたしのシャツの胸元を掴んで捻り上げる。
ボタンが、ぶちんと、弾けた。
「...んで、どうするんだい?」
虚ろに何かが揺らめく、あいつの眼の奥を、あたしは見つめた。
相変わらず、綺麗な眼をしている。
どすん。
あたしは突き飛ばされた。
あいつは、まだ濡れている服を着始める。
急いで。がさつに。
「風邪引くよ」
「うるせえよ」
干してあった靴下を、あいつは引きちぎるように取り、台所で絞った。
靴下を履きにくそうに、ずるずると履く。
滴のしたたり落ちるコートを羽織る。
「何処へ行くんだい」
「知るかよ」
がちゃり。
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雨が少し激しくなったようだ。
あいつの後ろ姿の、輪郭が、雨に煙って、ぼんやりしている。
あたしは、あいつに何か、言いかけた。
と。
「すまねえな」
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ばたむ。
....。
あたしは、へたり込んだ。
* * * * *
「ぴゃうん」
仔猫が、あたしの傍らで、鳴いた。
あいつの出て行った、ドアを見て。
「...知るもんか」
ふと、仔猫と眼が合った。
あいつと同じだ。
澄んでいるのに、虚ろな何かが、奥底で揺らめいている。
「...ふふ」
こいつも、あいつと同じで、また私を困らせるに違いない。
そして、時が来たら、また、あたしの許を飛び出して行くのだろうか。
それもよかろう。
「ほんとに、馬鹿ばっかだね、あたしの周りは」
「ぴぃ」
「さあ、おいで」
仔猫を抱きかかえ、あたしは、部屋の奥に戻った。
外はまだ、雨が激しく、降っていた。
おしまい
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