第三十四話 寒月君と猫(45歳 男 文筆家) | ねこバナ。

第三十四話 寒月君と猫(45歳 男 文筆家)

(某雑誌の特集「愛玩動物と現代の生活」への寄稿)

愛玩動物に就て書けといふ。僕は元々動物を好まないし、わけても犬猫の類ひには全く関心が無い。だから編集者が何故僕にこんな原稿を依頼して来たのか未だに解せない。
然し、さういふ人達の観察を書き留めるのも今回の寄稿の趣旨に沿わぬ訳ではあるまいと思ひ、引き受ける事にした次第である。
考へて見れば、物書きに犬猫を愛する者は多い。僕の周りでは、どう云ふ訳か猫を飼う人間が多いやうに思ふ。さういへば滝沢馬琴は「野驢」といふ猫を飼つてゐたさうだし、夏目漱石先生は飼猫をモデルに『吾輩は猫である』で好評を博した。又物書きではないが、最近粘菌とか云ふ奇妙な生物の研究で名を馳せた南方熊楠と云ふ御仁が大層な猫好きであるらしいと、柳田君から聞いた事がある。
猫は愛玩動物の中では手間がかからぬ方であるらしい。僕等物書きなどと云ふ生業の人間は、大抵気難しくて、身体が弱くて、其上面倒臭がりである事が多いやうだから、其点猫は愛玩動物としては適当であるかも知れぬ。しかし、ならば飼わぬのが一番だと考へる僕のやうな人間の方が、寧ろ自然のやうに思ふのだがどうだらう。

最近驚いたのは、寒月君こと寺田寅彦君が猫を飼ひ始めたことである。彼が漱石先生の『吾輩は~』の登場人物のモデルになつた事は良く知られてゐる。
何時だつたか、其事で寒月君をからかつた事があるが、彼は僕は寧ろ猫などに興味は無いと云つて、猫を褒める場面などは特に、其人物が漱石先生の創作の賜である事を悠長に述べてゐたやうに記憶してゐる。だから一層、彼の猫飼ひには奇妙な感覚を禁じ得なかつた。
溺愛とは云はないまでも、最近の彼の随筆を読むと、彼が猫に対して示している興味や愛情を強く感じぬ訳にはいかない。とりわけ、昨年の某女性誌に寄稿した文中の、

「私は猫に対して感ずるやうな純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思ふ。さういふ事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない」

などと云ふ一節からは、以前の彼の弁からは想像も出来ない猫への傾倒が看取されるであらう。

全体、彼等が猫といふ小動物に魅せられる其原因とは何であらうか。先の寒月君の言葉のやうな「純粋なあたたかい愛情」なのだらうか。僕はさうは考へない。寧ろあの、道端で突然出会つてしまつた時に投げ掛ける奇妙な眼力(と云ふ言葉が適当かどうか判らぬが、他に適当な言葉が見つからない)の鋭さ、そしてそれに由来するミステリヤスな刺激が、彼等猫飼ひの心を奪うのではないかと思ふのである。何時の時代にも、さういふ人智の及ばぬ不可思議な者を近くに置いてをきたい衝動にかられる人間は居るものだ。
然し、寒月君の如き科学者がその程度の怪奇趣味に走るとも思えぬ。僕はこの原稿の依頼を受けてからといふもの、この謎に常に頭を悩まされてゐるのだ。
そして、この結論は筆を措くまでに出さうに無い。全く困つた事である。

もう一つ困つた事が有る。この原稿を嫌々引き受たその翌日、息子が学校の帰りに猫を拾つて来たのだ。僕は直ぐに棄ててくるやうに云ひ渡したが、息子は頑として聞き入れず、家内も動物を飼ふのは情操に良いと息子を弁護する始末。私も折れて認める外無く、あつさりと猫は我が家の一員となつた次第である。
僕も又、猫といふ小動物の魔性に取り憑かれて仕舞ふのであらうか。僕はたゞ、寒月君の二の轍を踏まないやうに、あの刺激的な眼力から何うやつて逃れるかを、考えねばならない。
寧ろ取り憑かれて了ふ方が楽であるのかも知れぬが、そうさせないのは、僕のわづかに残つてゐる、寒月君に対するライヴアル心のやうなものであるらしい。

大正十二年五月



おしまい





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