大田区お宮巡り図 ② | 猫足

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大田区お宮巡り図、ふたたび。
タイトルは②ですが、3度目の御朱印ウォーキング・ツアーです。(1度目はこちら→
前回の大田区お宮巡り図ウォーキング・ツアーの記事はコチラ。
うす曇りでウォーキングしやすいとコンデジ持参で出掛けたものの
途中から日差しガンガンで参りました~。

今回目指した神社は、徳持神社鵜ノ木八幡神社新田神社


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こちらは徳持神社内の稲荷。

<由緒>
御創建は建長年間と伝え、豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請奉斎、御旗山八幡宮とも称され、
荏原郡池上村大字徳持の住民の守護神として尊崇せられ、元徳持の南地区に鎮座、
明治39年池上競馬場(目黒記念の発祥の地)設置の為、現在地に移転、
明治41年5月再建、同年9月15日徳持上宿に鎮座の稲荷神社を合祀竣工遷座を執行、
社名八幡神社を徳持神社と改称する。


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社殿へ進むと「健康歩道」なるものがある。


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「健康石」と「長寿石」が置かれ、その石を素足で8の字回るのだが
これが中々痛くて「祓いたまえ~」なんて唱えながらなんて当然無理っ!
二人して「イタタッ!」を連呼しながら回りました(笑)

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こちらは、鵜ノ木八幡神社。

<由緒>
延徳元年(1489)下野国佐野から移住してきた天明五郎右衛門光虎が一族の守護神として八幡大神を祀ったことに始まるという。
弘化4年(1847)改築の旧社殿は昭和20年(1945)の米軍による空襲で焼失。
平成12年(2000)社殿等を再建するとともに、改めて宇佐神宮より御分霊を勧請た。


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ちょっと珍しいなと思った狛犬。
左右どちらの狛犬も子を抱いているんですよね。
写真は左の狛犬で、右の狛犬の子はお乳を吸っているみたいに顔をお腹に向けてました。
丁度子の顔部分が欠けてしまっていてはっきり分かりにくくて残念!


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最後は「破魔矢」発祥といわれる新田神社。

境内にある神木は欅(ケヤキ)で樹齢700年。
雷や戦災で真っ二つになってしまったらしいが、いまも緑の葉が茂っています。
上部には宿り木も寄生しているらしいのですが、見た目で確認は出来ませんでした。
うーむ、見てみたかったな。

<由緒>
清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称しました。
新田義興公はその七世の裔(えい)新田義貞(よしさだ)公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、
元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。

 義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元2年12月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌3年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平7年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。

 その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。

 竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、

江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出しました。
 正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、

江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、

あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。
 舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、

義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、

矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました。
 そして、同年10月23日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、

七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。
 その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、

基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。

 この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。

そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉られました。

これが新田神社の起こりです。
(※大明神とは神様の中でも特に霊験あらたかな御神徳の高い神様をいいます。例 稲荷大明神や神田明神などがあります)




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目標の3つの神社、思っていたよりも近かったものの
照付ける日差しと暑さで体力消耗。
往復10kgの復路では無口になっていたワタシ(苦笑)

当然、足腰ガクガクの筋肉痛っ!
なんだかウォーキング記事の時はいつもこんな終わりですよね^^;




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