武者道フォーラム議事録 その2 | 愛のはしご酒 と 大人の部活

愛のはしご酒 と 大人の部活

米沢のいろんなこと。。。 そして大人になっても学びは忘れずにいたい。
そんなこんなについて、ちょっとずつ書いています。

◇第1部:プレゼンテーション

  

1 武者道の歴史について  遠藤英先生

 
武者道は小野榮先生の本によると、南原の原方衆や家中の下級武士の方々が

買い物をする時に使う道であった。

  
この時代、上級・中級武士は注文して商人に自宅に品物を届けさせるのが常であった。しかし貧しい下級武士の原方衆は自分で買い物に行かなければならなかった

 

しかし武士は武士。

武士としての誇りがあり、表通りから来て、町人、農民と顔を合わせて

一緒に買い物をするのは避けた。

裏口から入って直接やりとりをするために使われた道であった。

  

この道は直江兼続がまちづくりした当初から三の丸の堀端道として

道幅9尺で設計されていた。

    
武者道を堀端や裏道と位置づけでは面白くない。原方衆は米澤にしかない。

すなわち「武者道」は日本中どこを探しても米沢にしかない貴重な道です。
 


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この時代、関ヶ原の戦いで徳川家康に刃向かい生き残った大名はほとんどいない。

上杉家はそれだけ一目置かれた実力、政治力があり、

学問力にも優れた力のある存在であった。

    
上杉家はこの時代トップクラスの実力者であった。
まず120万石という石高がすごい。巨大な財力であった。
その次にくる大名は江戸時代を通してみても加賀100万石であるが、

これを超えている。さらに佐渡金山も与えられていた。

  

大名として認められる一万石というのは、

自力で戦える最低限の戦力を持てる単位であった。

戦場では兵隊以外の沢山の人手がいる、

旗持から土木部隊を含めなんとか部隊を作れる一単位のこと。

  
120万石とは、そういう部隊を120隊持てるということになる。

北の関が原と言われる長谷堂で最上義光と戦った時は、

最上24万石対上杉120万石だから、1対5の戦いだった。

    

上杉は強かったし政治的権威もあった。また学問的にも優れていた。
徳川と戦っても家を残してこられたのは、その時々の裁量によるものである。
  

前田慶次の本によると子供の頃に上杉景勝の度量に感激したとある。
慶次が幼い頃に大名が居並ぶ中、各大名の膝上に跨ると

ほとんどの大名は心を乱され激怒するのであるが、

景勝だけはどっしり構え微動だにせず、

慶次はその度量の大きさに感激したとある。
  

その後、成人したのち、徳川と戦って生き残ったのは上杉のみであり、

やはりその凄さを感じて安月給だが家臣となった。

 

 

関が原後の情勢はそれまでとうって変わり、

最上は52万石、伊達62万石であり、

最上、伊達は石高を上げて勢力を伸ばしてきていた。

上杉は30万石に減封された。

しかしまだ戦乱は続いており軍事力を維持する必要があった。

家臣をリストラしなかったのはこういう背景もあった。

米沢8百戸6千人の町に、6千騎3万人が移動してきたことで、食料不足がおきた。

対応として、農地開拓とそのための人が必要ということもあった。
 


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こういう背景から、武士でありながら自力で田畑を開拓する

「原方衆」が誕生することになった。

この原方衆が上杉を支えてきたとも言える。

誇りを持った武士達であり、上杉家のために農業をやることを厭わず

誇りとしていた。
直江兼続は、この原方衆のためにこの武者道を作った。

(上杉の歴史を背負った道である。)

三の丸堀沿いの武者道は右手に町人たちの黒塀が続き、

左手にお堀、土居の向こうに上級家臣の屋敷を見ながら、

城正面を武士としての誇りを持って歩いた道となる。

 

 

   

今はちょっと寂れた小道ではあるが想いの積もった道。

その当時の気持ちを考えると他所の路地裏とは違う。
 

大手門前通りはどこの城下町にでもある。

「武者道」は米沢にしかない。

そこを歩いていた、この町の先祖の人たちと同じ道を、

同じ実感を持って歩けることはすばらしいことだと思う。
  

「武者道」はよそに無い米沢だけのもの、

道だけではなく原方衆の想いが伝わる形で残し活かすべき。
 


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武者道は町人と堀、武家屋敷 城下町の構造まで考えられる道であるので

城下町のあり方まで広げて考えるべき。

(米沢城は町人街も城としての役割の一部である。また堀も特徴がある。)

 

   
武者道は武士の町と商人町と間にある道であり、

両側の町へ少し範囲を広げて考えれば、米沢の歴史の重要な場所の正面を通る。歴史上重要な史跡が点在している地域を結ぶ道になっている。

由緒のある神社や藩校の跡など多くの宝があるので、

それも含めて活かし方を考えて行くべきである。

  

    
現在の米沢観光はまっすぐ上杉神社を参拝するコースとなっているが、

武者道を通っていろんなことを見て体験して、

最後に上杉神社へ行くというコースでも良いと思う。