私の中でペンディングになっていました
聖林寺十一面観音の割れる評価について の続きです
今回は、町田甲一氏が和辻哲郎氏を攻撃してますよーー
以前の記事は
→こちら
(↑この記事の中にもリンクあります・・・)
本題に入る前に、これまでの経緯です
①以前より、聖林寺十一面観音の印象が、自分のものと世間のものに乖離があり、疑問に思ってきた
②数年前、町田甲一氏の文章に巡り合い、聖林寺十一面観音について、私と同じ印象を持つ立場の文章だったため気が楽になった
③町田氏のその文章を再び読んで記事にもしたいと思い、探したところ、中々見つからずに苦労した(探す過程も記事にしました)→それに近い本をみつけました(一部謎がのこりますが)
④仏像の評価に多大な影響を与えてきたと思われる哲学者和辻哲郎氏の『古寺巡礼』は、聖林寺十一面観音「絶賛派」の先頭を行く書だと思われるが、和辻氏の文章によれば、聖林寺十一面観音は当時の奈良博物館の「センター」にいらっしゃり、いわば「役得(和辻さんはそんなことは言ってませんけど)」で、実力以上の高評価を得たのでは?疑惑がある?
今回、話は佳境に入ります
本題に入る前に、これまでの経緯です
①以前より、聖林寺十一面観音の印象が、自分のものと世間のものに乖離があり、疑問に思ってきた
②数年前、町田甲一氏の文章に巡り合い、聖林寺十一面観音について、私と同じ印象を持つ立場の文章だったため気が楽になった
③町田氏のその文章を再び読んで記事にもしたいと思い、探したところ、中々見つからずに苦労した(探す過程も記事にしました)→それに近い本をみつけました(一部謎がのこりますが)
④仏像の評価に多大な影響を与えてきたと思われる哲学者和辻哲郎氏の『古寺巡礼』は、聖林寺十一面観音「絶賛派」の先頭を行く書だと思われるが、和辻氏の文章によれば、聖林寺十一面観音は当時の奈良博物館の「センター」にいらっしゃり、いわば「役得(和辻さんはそんなことは言ってませんけど)」で、実力以上の高評価を得たのでは?疑惑がある?
今回、話は佳境に入ります
聖林寺十一面観音をめぐり
町田さんは、和辻さん を
けちょんけちょんにやっつけますよ( ゚ ▽ ゚ ;)
一つの仏像を巡ってそこまで対立しなくても・・・ と思うくらいよ・・・
町田甲一『古寺辿歴』の中で、聖林寺十一面観音についての記述は、
和辻哲郎『古寺巡礼」』 の引用と批判からはじまります
引用文章は、「 」カッコつけて、太字にします
町田氏本人の文章のはじめには…
その中でさらに引用されている
和辻哲郎『古寺巡礼』の文章のはじめには…
のマークをつけますね
和辻氏のうっとり表現 と
町田氏の攻撃 と理性的な表現 の対比がおもしろい(コラ! ) ♥
この本から、内容を書き抜きます
町田甲一『古寺辿歴』(保育社、1982年)
「聖林寺十一面観音」(62ページ~)
「結晶作用を排す」(70ページ)
(武田道太郎さんの著書『近代日本画を育てる豪商』のなかで、原善一郎氏が三月堂不空羂索観音を「天平随一の名作と主張された」ことに続けて
(=和辻、以下 同)「天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしは寧ろ聖林寺の十一面観音を取るのである」
これに対し
(=町田、以下同) 「この聖林寺の観音像について、私は個人的に うらみ恨みつらみがあるわけではない。むしろ私 は、聖林寺の住職のあたたかな人柄やきわめて寛容なお気持ちには、日ごろから密かに深甚なる敬意を捧げているものである。それにも拘らず、・・・・・・これは、純粋に学問的に、時に冷酷にさえ思われるほど厳密に検討さるべき内容をもっていると思われる・・・・もう少し具体的にいうと、この聖林寺の十一面観音を天平の最高傑作と解するか、または天平末の欠点のいちじるしい、あるいは形式化の微侯の顕著なといった方がいいかもしれない、そのような末期的な現象のいちじるしい作品と解するか とでは、天平時代、そしてまた天平時代の美術様式そのものに対する理解の内容が全く異なってくるからである。さればこそ、・・・・・その結果に特にこだわるわけである。
この十一面観音を、最初に絶賛したのは和辻さんと矢代(幸雄)さん である。和辻さんは『古寺巡礼』の中で、前述のように 「 天平随一の名作 を選ぶということであれば、わたくしは寧ろ聖林寺の十一面観音を取るのである」と述べたあと、章をかえて「 聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思ふ。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のやうな建築のなかに安置して周囲の美しさに釣合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いてみえるであらう」と述べている。」
↓肩のあたり、気になる?
多少お相撲さんみたい?・・・
まだまだ町田氏による和辻『古寺巡礼』引用 が続きます
(長すぎて、全部引用するのがつらいので少しはしょります)
以下、再び、町田氏 の文章の 引用↓
(なっがいよ~、でも、 と の聖林寺十一面に対する温度差が面白いよ )
「 われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像が(はなこ注、唐ではなく)われわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に実感する。その幻視は作者の気賓と離し難いが、われわれはその気賓にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。その感じを細部に亘って説明することは容易ではないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少許の他人らしさは、この像の前では全然感じないのである」
という和辻氏の文章に対し、町田氏はこう続けます
私は、この聖林寺の十一面観音については、和辻さんや矢代さんのように、スタンダール のいわゆる「結晶作用」をおこさなかった。しかし、和辻さん や矢代さんの銘文を読んで、それから聖林寺の十一面観音の実物に接した多くの人たち の中には、知らず知らずの中に、直接観照(アウトプシー)に先立って知識として先入した和辻さんや矢代さんの評価が、実際の観照のいわば下敷き になって、色眼鏡とまではいわないにしても、一種のフィルターを通してものを見るように、眺めてしまっているケースが少なくないように、私には感じられるのである(これに似た現象は、古画の場合にも少なからず指摘できるように思う)。すぐれた先輩に(直接、あるいはその著書 などいよって)指導啓発されて、芸術の観照や評価が質的に向上するということもあるが、その逆の現象の決して少ないことも、歴史がこれをよく教えている。そして他人の眼を通してでなく、自分の眼をもってみて率直に評価する のであるならば、それがどのような評価であれ、その人にとって必然のものであり、真実のものである ということになり、それはそれとして一つの観照であるが、もしかりに他の人の眼を通して、何らかのフィルターを透かしてみているのであるならば、それは本当の真実の観照とはいえない。その点を、私は憂慮するのである。」
だよねーーー
大人になると王様に「裸だよ」といえないんだよね(え、ちがうかい?)
たとえば、鎌倉でもテレビでお店の紹介すると、翌日にはその店に行列ができる
(これがほんとに一時的な行列で、そのあと味を落として閉店するお店もおおいんだよね)
これなんかも卑近な例だけど、自分でたしかめもしないで、テレビや雑誌で誰かがほめてたから自分の頭 をスルーして、思考停止して、無条件にその評価を絶対的なものとして受け入れ ちゃう
これに似てない?
あれ?例えがひどすぎる?
とげがある?
ごめんよ
でも、ここから先の町田さんのいうことも
すごい悪意、すごいとげ
を感じるの
面白い から読んでみてね
いよいよ、話はクライマックスに!
べべンベンベン
では、町田氏は聖林寺の十一面観音をどう評価するのか?というところに入ります
この点に関して、町田氏の文章の続き↓
「 和辻さんは上引のごとく絶賛しているが、私は、聖林寺の十一面観音の像に関して、次のように感じている。顔はいかにも腫れぼったく、酷評すれば張籠(はりぼて)のような感じ で、法華堂の不空羂索観音の顔にみるような引き緊った感じやデリケートな造形が全く見られないのである。その点は両眼のあたり、口元の表現によく示されている。鼻の造形にいたっては、むかし正月に門ごとに訪れて来た出来のわるい獅子頭の鼻を連想させるような、無神経なつくり である。腕はまるで丸太棒のように感じられ、手は霜やけしたような感じ で、その点、児島喜久雄先生 のいわれた「すぐれた手には表情がある」という言葉が想い出されてくるのである。この聖林寺の観音の手には、まったく表情がない。不空羂索観音の胸前に力強く合掌する手とは大変 な違い である。頭と胴との連絡もまことに不自然であり、腹もいたずらに便々とした単調な造形になっており、両腕と体側の間の空間も、まことに間の抜けた感じのもので、両腕から肩へ かけての外郭をかたどる輪郭の線も、不自然で無神経な線を呈している(和辻さんが「気になるが」といっているのは、この点であろう)。このように、きわめて欠点 の多いこの聖林寺の観音が━前引の和辻さんの評価と私の評価では根本的に対立している━、なぜ今日まで破格の讃辞を受けて来たのであろうか。思えばまことに不思議なことである。おそらく、一見俗受け する西欧風に堂々たる体躯の感じが、両先生の西欧的な美観、美意識にアッピールした のであろう。そして当時は、西欧的な人文的教養主義を基盤とした美術観照の啓蒙時代であった。しかしそのような啓蒙時代は、すでに遠く過ぎ去っている筈でありる。」
↓なんだってぇー?獅子頭の鼻に似てる ってえ?
よくわからないから、獅子頭の画像2枚引っ張ってきました
(宇和島市指定有形文化財 木造獅子頭 16世紀)
「似てるかよッ 」(いくらなんでもヒドイ・・・ )
あーーそれにしても、すごい文章でしたね
和辻さんもうっとりしすぎだけど
町田さんも 言うねえ・・・・
結局どっちも感情的じゃん ┐( ̄ヘ ̄)┌
だけど、この部分 こそが、町田氏の聖林寺 十一面観音に対する評価なわけです
私が以前、この観音様の、
世間の高評価と自分の感覚の間に或るギャップ に苦しんでいた?時
町田氏の文章に出会って救われたのは、私にとっては大切な出来事でした
だけどさあ、この十一面観音の鼻を「出来の悪い 獅子頭の鼻」( )にたとえるくらいなら、
ご近所の安倍文殊院の文殊菩薩が 跨いでる獅子に似てるとか言ってあげた方がいいんでないの?
(新たな提案 )
↓安倍文殊院 文殊菩薩
の獅子↓
「えぇ? 」
あ、こっちのほうが、鼻似てるかも\!?
「ひ、ひどい・・・・・・・・・・・ 」
( ゚ ▽ ゚ ;) あれ?何の話だっけ?
もはや、なにがなんだか・・・
町田氏がここまでしつこく和辻さんをこきおろすのは
長年の恨み があるからかもしれません
どうやら、この本よりも 前に聖林寺十一面観音について
同様のことを書いた時
町田氏は四面楚歌に近い 状況に陥った らしいのです
そのあたりの恨みつらみをしるした
町田氏の文章が続きます
「 もっとも、私が最初にこの聖林寺十一面観音を酷評した「当時(昭和二十二年)、多くの人は私を支持しなかった 。寧ろ多くの人は私の評価に 対してきわめて批判的 であり、表立って(公的 に)ではなかったが、時にきびしく私を詰(なじ)るひともいた。矢代さんには、その逆鱗に触れて爾来ながくその不興を買った。児島先生は、「法華堂の 本尊のほうが、よっぽどいいよ」といって下さり、昭和十九年に出会た編著『天平彫刻』の中で聖林寺観音のことを「間の抜けた聖林寺 観音」と書かれていたが、私自身はまだ多少の不安もあった。そのころ、よく小林古径先生のところに伺っていたので、或る日、古径先生にこの像についての意見 をたずねてみたことがある。そのことについては、かつてさる雑誌(『萌春』)の「小林古径追悼特集」号の誌上で、「古径先生の死を悼んで」という蕪文の中で 触れているので、ここに引用してみよう。
「・・・・或る時(昭和二十二年)、私がこの聖林寺の十一面観音のことについて 古径さんにたずねると、古径さんは例の如く、下唇を軽く噛んで、『うむ』といったまま暫く壁の一点をじっと見つめられ、やや間をおいてから、 『ありゃ、よくない』 と一言いわれたのである。古径さんはあの聖林寺 の観音の『にぶさ』『ぬるさ』『甘さ』が恐らく嫌いだったのだろうと思う。しかしいずれにしても古径さんという人は、決してお世辞を言わない人である。況や若い私に対してお世辞を言われる 筈はないのである。その古径さんが、はっきりと、『ありゃ、よくない』と言われたのである。だから私は古径さんが本当にそう思われたのだと今でも信じている。当時私はこの一言で、千万人の味方を得たように勇気づけられたものである。あの聖林寺の観音に与えられた従来の過当の評価に対して、当時はっきりと否定的な言葉をのべられたのは、私の知るかぎりでは児島喜久雄先生と古径さんだけであった」
私の小著の刊行直後、積極的に賛意を表してくれた人は、直接的には上記の児島・小林両先生であるが、間接的には京都の 中村直勝先生も大いに賛同してくださったということを、人伝えに聞いた。最近 では建築士の藤島亥治郎先生も直接 私に同感の意を伝えてくださったが、嬉しいことには漸次、この像 の天平の絶品奈良ざることを認める 人がおおくなり、さらに多くの 人が、少なくとも従来のベタ讃めの評価に批判的 となり、客観的に見直そうという気持ちを、この像に対して改めて抱き 始めてきていることである。先にも記した通り、古美術観照の啓蒙時代は、すでに過ぎ去っている。女流随筆家の文章に多く見られるような、気分で古美術を観ようとする観照主義からも、もう抜け出していいころであろう。」(以上引用おわり)
なに?最後の 「女流随筆家」のくだり
それはさておき、
「気分で古美術」を観照しない というところは、そうあるべきだと思います
以上、
町田氏の文章の引用でした
これで、この像に対しては
熱狂的ファンもいれば(実際に聖林寺を訪れた時、像の 前に座り込んで動かない人や、熱く語り合う人々を見た 別にいいんだけど、こっちも見たいわけですから、誰かほかにいたら、少しどいて場所を譲るとか自分もつけ気をたいものですね)
アンチもいる
ということで
とりあえず私はスッキリしたつもりですが
町田さんの、こき下ろし方が
あまりにひどくて
十一面観音は何も悪いことしてないのに・・・
という不思議な気分になってきちゃった・・・
ごめんよ、聖林寺十一面観音
応援してるから頑張れ
・・・的な、
「味方的な終わり方」でもいいですか?」←
聖林寺へ行く道(バス停を降りたところ)
聖林寺入口
聖林寺からの風景
けちょんけちょんにやっつけますよ( ゚ ▽ ゚ ;)
一つの仏像を巡ってそこまで対立しなくても・・・ と思うくらいよ・・・
町田甲一『古寺辿歴』の中で、聖林寺十一面観音についての記述は、
和辻哲郎『古寺巡礼」』 の引用と批判からはじまります
引用文章は、「 」カッコつけて、太字にします
町田氏本人の文章のはじめには…
その中でさらに引用されている
和辻哲郎『古寺巡礼』の文章のはじめには…
のマークをつけますね
和辻氏のうっとり表現 と
町田氏の攻撃 と理性的な表現 の対比がおもしろい(コラ! ) ♥
この本から、内容を書き抜きます
町田甲一『古寺辿歴』(保育社、1982年)
「聖林寺十一面観音」(62ページ~)
「結晶作用を排す」(70ページ)
(武田道太郎さんの著書『近代日本画を育てる豪商』のなかで、原善一郎氏が三月堂不空羂索観音を「天平随一の名作と主張された」ことに続けて
(=和辻、以下 同)「天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしは寧ろ聖林寺の十一面観音を取るのである」
これに対し
(=町田、以下同) 「この聖林寺の観音像について、私は個人的に うらみ恨みつらみがあるわけではない。むしろ私 は、聖林寺の住職のあたたかな人柄やきわめて寛容なお気持ちには、日ごろから密かに深甚なる敬意を捧げているものである。それにも拘らず、・・・・・・これは、純粋に学問的に、時に冷酷にさえ思われるほど厳密に検討さるべき内容をもっていると思われる・・・・もう少し具体的にいうと、この聖林寺の十一面観音を天平の最高傑作と解するか、または天平末の欠点のいちじるしい、あるいは形式化の微侯の顕著なといった方がいいかもしれない、そのような末期的な現象のいちじるしい作品と解するか とでは、天平時代、そしてまた天平時代の美術様式そのものに対する理解の内容が全く異なってくるからである。さればこそ、・・・・・その結果に特にこだわるわけである。
この十一面観音を、最初に絶賛したのは和辻さんと矢代(幸雄)さん である。和辻さんは『古寺巡礼』の中で、前述のように 「 天平随一の名作 を選ぶということであれば、わたくしは寧ろ聖林寺の十一面観音を取るのである」と述べたあと、章をかえて「 聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思ふ。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のやうな建築のなかに安置して周囲の美しさに釣合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いてみえるであらう」と述べている。」
↓肩のあたり、気になる?
多少お相撲さんみたい?・・・
まだまだ町田氏による和辻『古寺巡礼』引用 が続きます
(長すぎて、全部引用するのがつらいので少しはしょります)
以下、再び、町田氏 の文章の 引用↓
(なっがいよ~、でも、 と の聖林寺十一面に対する温度差が面白いよ )
「 われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像が(はなこ注、唐ではなく)われわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に実感する。その幻視は作者の気賓と離し難いが、われわれはその気賓にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。その感じを細部に亘って説明することは容易ではないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少許の他人らしさは、この像の前では全然感じないのである」
という和辻氏の文章に対し、町田氏はこう続けます
正直にいって、文学的、哲学的な観方修辞が多く、何とも難解な文章である。少なくとも私は、この像に相対して、そのように観じ、そのように考えることはないし、仏像に相対してそのように観想することは、—観念的に主観化されて観照すること は—果たして古美術の観照として正しいものであろうか、頗る疑問に思われてくるのである。
和辻さん、「幻視」とか言っていいのかな?
こんな大切なところに、文献の裏付けもなく、魔術師みたいなこと言っていいのかな?
これに対し、
町田さん、バッサバッサ斬り始めましたね
でも、町田さんの冷静さは、少なくとも、仏像を美術史の中でとらえるときには必要なんでしょうね
うっとりしてても、はじまらないしね
人それぞれの立場もありますけどね
「和辻さんはさらに次のごとく、多少具体的に、つづけている。
「 きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、━すべてわれわ れが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現されている。薄く開かれたひとみ の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とほす観自在の眼(まなこ)である。豊かに結ばれた唇には、刀 刀の堅きを段々に壊り、風涛洪水の暴力 を和かに鎮むる無限 の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福 を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽そうとする程に気高い。これらの相好が黒漆の地にうかんだ浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる。確かにこれは観音 の顔であって、人の顔ではない。
この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらはな肌が黒と金に輝いていたためばかりではない。肉付け は豊満でありながら、肥満の感じ を与えない。四肢のしなやかさはやわらかい衣 の襞にも腕や手の円さにも十分現されていながら、しかもその底に強靭 な意力の閃きを持っている。殊にこの重重しかるべき五体は、重力 の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。・・・・・・・・」
あー、もう、難しすぎて、っていうか、主観的で、うっとりしすぎていて
私はついていけないわ!
ていうより、これを鵜呑みにして、現場に行って鑑賞するのは
危険ですよ、奥さん(朝イチのイノッチ風にどうぞ)
↓和辻氏大絶賛の顔面…上のピンク字のところ、確認してみてね
あ、ゴルゴライン のこと書いてないねー
「確かにこれは観音 の顔であって、人の顔ではない」
っていうけど、これあたりまえじゃないの?
まだまだ, 和辻さんの絶賛の文章の引用が続きますが、うっとり酔い を起こしそうなので、少し省略していいでしょうか?まだ読みたい?・・・・・・・引き続きこの感じなので、とりあえずはしょって次に行きますね )
の絶賛文章が続いたあと、 の冷静文章がバッサバッサと斬っていきます
また、引用↓
「 和辻さんは専門の美術史家ではなかったし、如上の文章 も美術史的ないわゆる「記述」でもない。それにしえも私たちの直接観照によって受けるところのものと、あまりにもかけ離れている。たしかに、文章的哲学的随想として読めば、━実物やその写真をみなくても━読んでおもしろく、その意味ですぐれた文学的作品、きわめて高度の哲学的随筆として評価されるだろうが、その観照がほんものならば━和辻さん自身にとってほんものであるならば━それはもはや、静観(コンテンプラチオン)の(「主観」が「客観」に帰入する境地としての)域をこえて、かなり主観的に誇張された観照が行われているといわなければならないだろう、と私は思う。
「 私の率直な感想をいうと、如上の和辻さん の文章には、青年らしいやや上ずった調子がうかがえ(そのころ和辻さんは三十歳前後であった。そこには和辻 さん自ら「改版序」に記しているように、若さと、そして若々しい情熱があった)、とくに後半の部分は具体的な観照を超えて、かなり観念的なところもあり、それだけ一層オクターヴが上がっている感じである。」
いや、きびしいね~~
町田さんにとって和辻さんは先生にもあたる立場の人のようだけど
立場を超えて
ここまで怒る とは・・・
「 しかし、和辻さんは、右の引用の少し前のところで、「 聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない」といっている。あれだけ結晶作用(クリスタリザスイヨン)をおこしていた和辻さんでも、この像 の肩のあたりは気になったのであろう。晩年には私に、私の観照 を半ば肯定されるように、「 そういえばそうかな」といわれ、『古寺巡礼 』はいわば先生の青年時代の自画像みたいなものだから、今さら筆を入れて直すわけにもいかないのだ、と言われていた。」
ええー なになに?つまり、和辻さんも、自分の下した評価について
「そういえばそうかな ?」
とか言って
非公式には間違いだったと認めたということでしょうか?
それなのに、『古寺巡礼』を、そのまんまほったらかしにしておいたから、
後世の人が、仏像を鑑賞するときに影響をうけちゃって
「偉大な和辻さんが素晴らしいといったんだから、それは素晴らしい に決まっている」
と、いかにも通を装って、自分の眼や五感をはたらかせもしないで
無条件に、素晴らしい、バンザイ とやってたんでしょうか
(あれれ私も感情的 になってるわねえ・・)
さて、町田氏の文章は続きます↓
「 結晶作用(クリスタりザイスヨン)を排す
和辻さん、「幻視」とか言っていいのかな?
こんな大切なところに、文献の裏付けもなく、魔術師みたいなこと言っていいのかな?
これに対し、
町田さん、バッサバッサ斬り始めましたね
でも、町田さんの冷静さは、少なくとも、仏像を美術史の中でとらえるときには必要なんでしょうね
うっとりしてても、はじまらないしね
人それぞれの立場もありますけどね
「和辻さんはさらに次のごとく、多少具体的に、つづけている。
「 きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、━すべてわれわ れが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現されている。薄く開かれたひとみ の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とほす観自在の眼(まなこ)である。豊かに結ばれた唇には、刀 刀の堅きを段々に壊り、風涛洪水の暴力 を和かに鎮むる無限 の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福 を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽そうとする程に気高い。これらの相好が黒漆の地にうかんだ浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる。確かにこれは観音 の顔であって、人の顔ではない。
この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらはな肌が黒と金に輝いていたためばかりではない。肉付け は豊満でありながら、肥満の感じ を与えない。四肢のしなやかさはやわらかい衣 の襞にも腕や手の円さにも十分現されていながら、しかもその底に強靭 な意力の閃きを持っている。殊にこの重重しかるべき五体は、重力 の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。・・・・・・・・」
あー、もう、難しすぎて、っていうか、主観的で、うっとりしすぎていて
私はついていけないわ!
ていうより、これを鵜呑みにして、現場に行って鑑賞するのは
危険ですよ、奥さん(朝イチのイノッチ風にどうぞ)
↓和辻氏大絶賛の顔面…上のピンク字のところ、確認してみてね
あ、ゴルゴライン のこと書いてないねー
「確かにこれは観音 の顔であって、人の顔ではない」
っていうけど、これあたりまえじゃないの?
まだまだ, 和辻さんの絶賛の文章の引用が続きますが、うっとり酔い を起こしそうなので、少し省略していいでしょうか?まだ読みたい?・・・・・・・引き続きこの感じなので、とりあえずはしょって次に行きますね )
の絶賛文章が続いたあと、 の冷静文章がバッサバッサと斬っていきます
また、引用↓
「 和辻さんは専門の美術史家ではなかったし、如上の文章 も美術史的ないわゆる「記述」でもない。それにしえも私たちの直接観照によって受けるところのものと、あまりにもかけ離れている。たしかに、文章的哲学的随想として読めば、━実物やその写真をみなくても━読んでおもしろく、その意味ですぐれた文学的作品、きわめて高度の哲学的随筆として評価されるだろうが、その観照がほんものならば━和辻さん自身にとってほんものであるならば━それはもはや、静観(コンテンプラチオン)の(「主観」が「客観」に帰入する境地としての)域をこえて、かなり主観的に誇張された観照が行われているといわなければならないだろう、と私は思う。
「 私の率直な感想をいうと、如上の和辻さん の文章には、青年らしいやや上ずった調子がうかがえ(そのころ和辻さんは三十歳前後であった。そこには和辻 さん自ら「改版序」に記しているように、若さと、そして若々しい情熱があった)、とくに後半の部分は具体的な観照を超えて、かなり観念的なところもあり、それだけ一層オクターヴが上がっている感じである。」
いや、きびしいね~~
町田さんにとって和辻さんは先生にもあたる立場の人のようだけど
立場を超えて
ここまで怒る とは・・・
「 しかし、和辻さんは、右の引用の少し前のところで、「 聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない」といっている。あれだけ結晶作用(クリスタリザスイヨン)をおこしていた和辻さんでも、この像 の肩のあたりは気になったのであろう。晩年には私に、私の観照 を半ば肯定されるように、「 そういえばそうかな」といわれ、『古寺巡礼 』はいわば先生の青年時代の自画像みたいなものだから、今さら筆を入れて直すわけにもいかないのだ、と言われていた。」
ええー なになに?つまり、和辻さんも、自分の下した評価について
「そういえばそうかな ?」
とか言って
非公式には間違いだったと認めたということでしょうか?
それなのに、『古寺巡礼』を、そのまんまほったらかしにしておいたから、
後世の人が、仏像を鑑賞するときに影響をうけちゃって
「偉大な和辻さんが素晴らしいといったんだから、それは素晴らしい に決まっている」
と、いかにも通を装って、自分の眼や五感をはたらかせもしないで
無条件に、素晴らしい、バンザイ とやってたんでしょうか
(あれれ私も感情的 になってるわねえ・・)
さて、町田氏の文章は続きます↓
「 結晶作用(クリスタりザイスヨン)を排す
私は、この聖林寺の十一面観音については、和辻さんや矢代さんのように、スタンダール のいわゆる「結晶作用」をおこさなかった。しかし、和辻さん や矢代さんの銘文を読んで、それから聖林寺の十一面観音の実物に接した多くの人たち の中には、知らず知らずの中に、直接観照(アウトプシー)に先立って知識として先入した和辻さんや矢代さんの評価が、実際の観照のいわば下敷き になって、色眼鏡とまではいわないにしても、一種のフィルターを通してものを見るように、眺めてしまっているケースが少なくないように、私には感じられるのである(これに似た現象は、古画の場合にも少なからず指摘できるように思う)。すぐれた先輩に(直接、あるいはその著書 などいよって)指導啓発されて、芸術の観照や評価が質的に向上するということもあるが、その逆の現象の決して少ないことも、歴史がこれをよく教えている。そして他人の眼を通してでなく、自分の眼をもってみて率直に評価する のであるならば、それがどのような評価であれ、その人にとって必然のものであり、真実のものである ということになり、それはそれとして一つの観照であるが、もしかりに他の人の眼を通して、何らかのフィルターを透かしてみているのであるならば、それは本当の真実の観照とはいえない。その点を、私は憂慮するのである。」
だよねーーー
大人になると王様に「裸だよ」といえないんだよね(え、ちがうかい?)
たとえば、鎌倉でもテレビでお店の紹介すると、翌日にはその店に行列ができる
(これがほんとに一時的な行列で、そのあと味を落として閉店するお店もおおいんだよね)
これなんかも卑近な例だけど、自分でたしかめもしないで、テレビや雑誌で誰かがほめてたから自分の頭 をスルーして、思考停止して、無条件にその評価を絶対的なものとして受け入れ ちゃう
これに似てない?
あれ?例えがひどすぎる?
とげがある?
ごめんよ
でも、ここから先の町田さんのいうことも
すごい悪意、すごいとげ
を感じるの
面白い から読んでみてね
いよいよ、話はクライマックスに!
べべンベンベン
では、町田氏は聖林寺の十一面観音をどう評価するのか?というところに入ります
この点に関して、町田氏の文章の続き↓
「 和辻さんは上引のごとく絶賛しているが、私は、聖林寺の十一面観音の像に関して、次のように感じている。顔はいかにも腫れぼったく、酷評すれば張籠(はりぼて)のような感じ で、法華堂の不空羂索観音の顔にみるような引き緊った感じやデリケートな造形が全く見られないのである。その点は両眼のあたり、口元の表現によく示されている。鼻の造形にいたっては、むかし正月に門ごとに訪れて来た出来のわるい獅子頭の鼻を連想させるような、無神経なつくり である。腕はまるで丸太棒のように感じられ、手は霜やけしたような感じ で、その点、児島喜久雄先生 のいわれた「すぐれた手には表情がある」という言葉が想い出されてくるのである。この聖林寺の観音の手には、まったく表情がない。不空羂索観音の胸前に力強く合掌する手とは大変 な違い である。頭と胴との連絡もまことに不自然であり、腹もいたずらに便々とした単調な造形になっており、両腕と体側の間の空間も、まことに間の抜けた感じのもので、両腕から肩へ かけての外郭をかたどる輪郭の線も、不自然で無神経な線を呈している(和辻さんが「気になるが」といっているのは、この点であろう)。このように、きわめて欠点 の多いこの聖林寺の観音が━前引の和辻さんの評価と私の評価では根本的に対立している━、なぜ今日まで破格の讃辞を受けて来たのであろうか。思えばまことに不思議なことである。おそらく、一見俗受け する西欧風に堂々たる体躯の感じが、両先生の西欧的な美観、美意識にアッピールした のであろう。そして当時は、西欧的な人文的教養主義を基盤とした美術観照の啓蒙時代であった。しかしそのような啓蒙時代は、すでに遠く過ぎ去っている筈でありる。」
↓なんだってぇー?獅子頭の鼻に似てる ってえ?
よくわからないから、獅子頭の画像2枚引っ張ってきました
(宇和島市指定有形文化財 木造獅子頭 16世紀)
「似てるかよッ 」(いくらなんでもヒドイ・・・ )
あーーそれにしても、すごい文章でしたね
和辻さんもうっとりしすぎだけど
町田さんも 言うねえ・・・・
結局どっちも感情的じゃん ┐( ̄ヘ ̄)┌
だけど、この部分 こそが、町田氏の聖林寺 十一面観音に対する評価なわけです
私が以前、この観音様の、
世間の高評価と自分の感覚の間に或るギャップ に苦しんでいた?時
町田氏の文章に出会って救われたのは、私にとっては大切な出来事でした
だけどさあ、この十一面観音の鼻を「出来の悪い 獅子頭の鼻」( )にたとえるくらいなら、
ご近所の安倍文殊院の文殊菩薩が 跨いでる獅子に似てるとか言ってあげた方がいいんでないの?
(新たな提案 )
↓安倍文殊院 文殊菩薩
の獅子↓
「えぇ? 」
あ、こっちのほうが、鼻似てるかも\!?
「ひ、ひどい・・・・・・・・・・・ 」
( ゚ ▽ ゚ ;) あれ?何の話だっけ?
もはや、なにがなんだか・・・
町田氏がここまでしつこく和辻さんをこきおろすのは
長年の恨み があるからかもしれません
どうやら、この本よりも 前に聖林寺十一面観音について
同様のことを書いた時
町田氏は四面楚歌に近い 状況に陥った らしいのです
そのあたりの恨みつらみをしるした
町田氏の文章が続きます
「 もっとも、私が最初にこの聖林寺十一面観音を酷評した「当時(昭和二十二年)、多くの人は私を支持しなかった 。寧ろ多くの人は私の評価に 対してきわめて批判的 であり、表立って(公的 に)ではなかったが、時にきびしく私を詰(なじ)るひともいた。矢代さんには、その逆鱗に触れて爾来ながくその不興を買った。児島先生は、「法華堂の 本尊のほうが、よっぽどいいよ」といって下さり、昭和十九年に出会た編著『天平彫刻』の中で聖林寺観音のことを「間の抜けた聖林寺 観音」と書かれていたが、私自身はまだ多少の不安もあった。そのころ、よく小林古径先生のところに伺っていたので、或る日、古径先生にこの像についての意見 をたずねてみたことがある。そのことについては、かつてさる雑誌(『萌春』)の「小林古径追悼特集」号の誌上で、「古径先生の死を悼んで」という蕪文の中で 触れているので、ここに引用してみよう。
「・・・・或る時(昭和二十二年)、私がこの聖林寺の十一面観音のことについて 古径さんにたずねると、古径さんは例の如く、下唇を軽く噛んで、『うむ』といったまま暫く壁の一点をじっと見つめられ、やや間をおいてから、 『ありゃ、よくない』 と一言いわれたのである。古径さんはあの聖林寺 の観音の『にぶさ』『ぬるさ』『甘さ』が恐らく嫌いだったのだろうと思う。しかしいずれにしても古径さんという人は、決してお世辞を言わない人である。況や若い私に対してお世辞を言われる 筈はないのである。その古径さんが、はっきりと、『ありゃ、よくない』と言われたのである。だから私は古径さんが本当にそう思われたのだと今でも信じている。当時私はこの一言で、千万人の味方を得たように勇気づけられたものである。あの聖林寺の観音に与えられた従来の過当の評価に対して、当時はっきりと否定的な言葉をのべられたのは、私の知るかぎりでは児島喜久雄先生と古径さんだけであった」
私の小著の刊行直後、積極的に賛意を表してくれた人は、直接的には上記の児島・小林両先生であるが、間接的には京都の 中村直勝先生も大いに賛同してくださったということを、人伝えに聞いた。最近 では建築士の藤島亥治郎先生も直接 私に同感の意を伝えてくださったが、嬉しいことには漸次、この像 の天平の絶品奈良ざることを認める 人がおおくなり、さらに多くの 人が、少なくとも従来のベタ讃めの評価に批判的 となり、客観的に見直そうという気持ちを、この像に対して改めて抱き 始めてきていることである。先にも記した通り、古美術観照の啓蒙時代は、すでに過ぎ去っている。女流随筆家の文章に多く見られるような、気分で古美術を観ようとする観照主義からも、もう抜け出していいころであろう。」(以上引用おわり)
なに?最後の 「女流随筆家」のくだり
それはさておき、
「気分で古美術」を観照しない というところは、そうあるべきだと思います
以上、
町田氏の文章の引用でした
これで、この像に対しては
熱狂的ファンもいれば(実際に聖林寺を訪れた時、像の 前に座り込んで動かない人や、熱く語り合う人々を見た 別にいいんだけど、こっちも見たいわけですから、誰かほかにいたら、少しどいて場所を譲るとか自分もつけ気をたいものですね)
アンチもいる
ということで
とりあえず私はスッキリしたつもりですが
町田さんの、こき下ろし方が
あまりにひどくて
十一面観音は何も悪いことしてないのに・・・
という不思議な気分になってきちゃった・・・
ごめんよ、聖林寺十一面観音
応援してるから頑張れ
・・・的な、
「味方的な終わり方」でもいいですか?」←
聖林寺へ行く道(バス停を降りたところ)
聖林寺入口
聖林寺からの風景