右脳で神を感じて、左脳でこの世の因果を検証する。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 目に見えないが、この世にはいろんな情報が飛び交っている。想像したらいい、携帯電話、都市部の雑踏に10万人いたとして、その10万人が今、携帯電話をしようしていたとする。目には見えないが、ちょっと、高いビルのうえにたって、都市部を俯瞰すれば、10万人の通話する電磁波が飛び交っていることになる。もし、10万台の携帯電話を一箇所において、スピーカー音でその音をならせば、10万人分の声が、そこから出てくることになる。その10万台の携帯電話が10万という人によって、ばらばらに分散されている状態が今である。

 

 世の中というのは、常に、いろんなものが、目に見えない状態で無限に近い状態で重なっている。目に見えない、わからない状態がほぼ森羅万象の99%以上だろう。我々が見えて感受して実感できる状態はその1%も満たないのかもしれない。なぜなら、我々はこの世が何でできたのか、なんで今があるのかなど、まったくわかっていないからである。事象はわかる、しかし、その因果がわからないからである。ノーベル賞をとった人でも、総理大臣でも、偉い宗教家でも、だれもわからない。真実は一つなのだが、それが何であるのかわからない。もしかしたら、我々が想像しているよりも簡単かもしれないし、複雑なのかもしれない。それはわからない。永遠に理解できないということ。永遠に真理は闇の中ということ。我々は、その1%も満たない事で、鬼の首をとったかのように自慢する。特に、浮かれ上がった若者は、ちょっと、うまくいくと、真理を掴んだかのように錯覚する。本当に頭のいい人は、真理に対して謙虚である。右脳が左脳のエゴの暴走に待ったを掛けるからである。

 

 今、我々が見ている世界、感じている世界の事象を解き明かすことは、それほど難しいことではない、この世界の中の因果律というのは、実験をして、原因と結果にある一定のルールがわかれば、それでなんとかなる。そのルールが適応される範囲を決めてしまえれば、再現はとれる。今の文明はそれで成り立っている。その最大の受益として、今の文明がある。携帯電話、スマートフォン、ハイブリット車、新幹線、PC,そして、さらに、機能を高めるために、色々な新素材開発を行っている。大体、なにかをブレイクスルーするには、一人の天才が何かを発明して、それがきっかけとなって、新たなステージに向かうことがおおい。

 

 残念なことに、人が生きられる時間というのは、それほど長くはない。ある程度、経験と感性と知識がそろってくるのが、45歳以降である。大器晩成の人なら、それが60歳以降でくる場合もあるだろう。それだけの経験と熟成が必要なら、そのぐらいの年齢をまたないと、ひらめきがこないのかもしれない。それから、人がまともにいきても10年、最大20年ぐらいしか、活動できない。人のありようも蝉とおなじかもしれない。蝉は、何年も土の中にねむっていて、そして、地上にでて、はげしくなく。せみ時雨である。そうして、その命は一週間、蝉の子孫をのこすために、地上にでて使われる、その一週間の命を精一杯いきて、蝉は死ぬ。その亡骸は、鳥や昆虫の栄養分として使われる。それが世の中の因果なら、それを受け入れるしかない。

 

 だから、左脳というのは、無限に近いものから、自分にとって都合がいい因果を選び、ひとつに収縮させる役目である。ばばぬきで、数枚有るカードから、どれにしようかなと一つ選ぶ行為と一緒である。マージャンも同じ感覚である。どの役にして上がろうかなと、選んできっていく。それが人生である。右脳は、それとは逆に、全体のイメージを感受することにある。だから、左脳を十分に機能させるには、右脳がしっかりと、多く重なった状態の有り様を感受しなければ、意味がない。頭のいい人ほど、右脳がしっかりとしているのはそういう理屈である。

 

 だから、勉強にしても、信仰にしても、まず、神という森羅万象の重なりを感じなければならない。その重なりがどんな因果で動いているのか、それがどのようにこの世に作用しているのか、それを感受できなければ、まともな信仰などできないし、神はその因果をその人に伝授しない。メシアにはならない。迷える人々に、何が神の因果なのかを指し示すことができない。

 

 それが感受できて、はじめて、左脳で、自分にとって都合がいい因果を選び、そのロジックを学ぶ。それが宗教というものである。どの宗派を選ぶのは、その人の趣向による。キリスト教を選ぶのもいいし、仏門にはいるのもいい、新興宗教でもいい、いずれにしても、右脳で神を感受できる人は、どの宗派も否定したりしない。ただ、右脳が空っぽで、左脳だけのロジックで信仰していると思わせている人は、基本的に、宗教を利用している営利主義者であるから、右脳で神を感受できる人は、それに対して、痛烈な批判をするのは当然といえば当然かもしれない。

 

 物事は、急がば回れでいい。左脳的な学習は、いつでもできる。しかし、右脳的なイメージは、なかなか身につかない。右脳教育は常に実践である。絵なら、絵を描かなければならない。音楽なら、自分でメロディをつくり、歌い、楽器を演奏して、なんぼである。まず、右脳で全体を感受した、左脳で細部を検証する。それが或る意味、一流な人になる条件である。右脳をしっかりと、鍛えた人は、たとえ、学歴がなかろうと、貧困であろうと、神につながっている以上、40歳以降、かならず、どの分野でも、一目置かれる立場になる。左脳的に自我で浮かれ上がった人は、学歴があろうと、裕福であろうとも、40歳以降、かならず、斜陽していく。20代後半から30代までは、左脳の知識で勝負できても、40歳以降は、失墜していく。50歳以降、一流になれるひと、大企業でいったら、役員として会社をリードできるひと、役人なら、国家の命運を担える人、政治家なら世界の平和を考えられる人は、常に、右脳で神を感じ、左脳で、この世の因果を分析できる人である。若者は、左脳の視点で自分を絶対に過信してはいけない。過信すると、後で、しっぺ返しがくる。