何のために生きているのか、誰のためにいきるのか。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 たぶん、そんな問いかけなど、虚しいことだと感じる。しかし、我々は、いつまでもそれを問いかけ続けて、そして、答えのだせぬままに、この世を閉じることになる。その閉じる瞬間、何のために生きてきたのか、といえば、結果からみれば、ここまで生きるためにいきてきたというごく当たり前の答えを発して死ぬことになる。誰のために生きたのかといえば、結局、自分のために生きたというしかないだろう。

 

 当然に、わたしにも、その瞬間が訪れる。だれでもそれがくる。それは、命の終焉である。その時、思うのは、きっと、家族に会いたいと思うだろう、自分をはぐくんだもの、妻が先にいっていたら、妻とあいたいと思うだろう、とにかく、過去に、一番、楽しかった時の思い出、その情景が最後に浮かんで、そこへ戻りたいという気持ちをもって、目を閉じることだろう。その後、何があるのか、分からない。きっと、永遠の睡眠状態になるだろう。私と言うエゴをもったもの、一生かけて、まもってきたもの、それが、この世から消えることである。再び、私と言うエゴを私はもつことはできない。一生一度の、自分にとって最初で最後の自分という人生の舞台の幕が終わる時である。その時、私にとって、神は必要だろうか。神があろうとなかろうと、閉じてしまえれば、それでこの世はおしまい。神様、助けてといっても、ふたたび、この世にはもどらない。死者は蘇らない。復活はしないだろう。その後のことはわからない。この世の因果からあの世の因果へと遷移するからである。そこになにがあるのか、神の因果、あの世の因果が、あるのは分かっている。だが、この世からあの世へ遷移したエゴが、どうのように関わるのか、どのようにあの世の因果に溶けて、どうあの世の因果の場と作用するのか、わからない。あの世へ行ったことがないのでわからない。

 

 しかし、私は神を信じている。信じているよりも、この世の因果で、この世を生んだ因果が証明できない以上、この世の因果を生んだ上位概念が存在しているのを認めるしか術がない。それが神の因果である。だから、神を信じているというよりも、その実在を信じている。信じるというよりも、それが実在している以上、実在を認識しているといったほうがいい。

 

 若者は、迷う。己の才覚を過信する。それは当たり前の話。結婚して、親になる時期、だいたい、30歳ぐらいから、別なエゴを強くもつ。それは、自己防衛が働くからである。家族を守らなければならないという思いが出てくるからである。そうして、50歳ぐらいまで、子供が成人するまで、それがつづく。そうして、子供で出ていった後、自己防衛本能は薄まって行く。しかし、そこには、もう何もない。時間が過ぎただけである。それが、ごく一般的な若者の行く末である。

だから、

心の貧しい者は幸いです。

悲しむものは幸いです。

柔和な者は幸いです。

義に飢えている者は幸いです。

あわれみ深い者は幸いです。

こころのきよい者は幸いです。

平和をつくる者は幸いです。

義のために迫害されている者は幸いです。との言葉が逆に生きてくる。あわれみ深い者はあわれみを受けるから、深く人生を考えるようになる。

 

 深く人生を考えなければ、時間に流されていく。神の必然性を感じることなく、あの世の因果を想うこともなく、ただ、この世の現象に幻惑されながら、生きることになる。仕事のツールを使いこなすこと、管理能力を高めること、或る意味、人を出し抜いて、出世しようと権謀術数の技を磨くこと、人をだましても利益をとろうとする術を得ること、人を裏切っても己の見栄を優先すること、そういう生き方をするようになる。そうして、だんだんと、自分の命の終わりが見えてくると、はたと不安になる。あの世の因果が見えてこないからである。

 

 にわかに、神に祈っても、念仏をとなえても、お経を読んでも、何もうまれない。心の不安、死の不安が忍び寄ってくるからである。あの世の因果、神の因果を実感しなければ、すべてが、虚しい響きとなってしまう。乱気流できりもみ状態で、死へ突入するのは、苦しい事である。47歳をすぎると、老化が始まる。それと同時に、あの世の因果をすこしずつ、感じ始められるように、したほうがいい。