『さよなら、愛しい人』 | 本だけ読んで暮らせたら

『さよなら、愛しい人』

Farewell, My Lovely (1940)
『さよなら、愛しい人』  レイモンド・チャンドラー/著、 村上春樹/訳、 早川書房(2009)

村上春樹による新訳版チャンドラーの第2弾。


清水訳の旧版『さらば愛しき女よ』を最初に読んだのは20年以上も前のことで、物語の内容の大部分は私の脳の記憶領域からアンインストールされている。

わずかに覚えているのは、刑務所を出所したばかりで、ある女を捜している“ヘラジカ”と呼ばれる大男の行方をマーロウが捜すことと、その大男が最後は撃たれるということ・・・・・。

読み進めるうちに、思い出してゆくのだろうか・・・??


・・・・・・・・・・・ ん~、細かいところはほとんど思い出せない (^_^;) ・・・・・・・・・。


物語のイントロダクションから前半部にかけては、観察者としてのマーロウの立ち位置が強調されている。ハードボイルド小説の典型的パターンの一つ。。。

だが、物語が動き出し、マーロウ自身が事件に巻き込まれてからは、そうした立ち位置から徐々に遠ざかるようになり、後半部では観察者としての視点を完全に捨てている・・・ような感じがする。後半部以降の物語は、マーロウの極めて主観的な立場による事件の顛末が描かれる。こういったところ、『マルタの鷹』に代表されるハメット作品とは違っているんだろうな(?)


事件から手を引くようにとの警察や犯罪者からの再三の要請、脅しにも関わらず、マーロウは彼自身の意地とか矜持とか呼ばれるものに従って、最後まで事件への関与を止めようとはしない(ハードボイルド小説の典型的パタンのもう一つの側面・・・、こちらは頑なに守られている)。。。


さて、この新訳版を読んで新たに気付いたのが以下のこと・・・。


マーロウは、彼と事件に関わった全ての男達を、例えそれが彼に脅しを加え暴力を振るった男であっても、結局最後には許している。ダーティな警官であっても、富裕層の女達を食い物とする如何わしい心霊術師であっても、彼に麻薬を投与したモグリの医師であっても、殺人を犯した男であっても・・・。

なぜなら、チャンドラーがマーロウを通して描く男達というのは純粋な悪の存在ではないからだ。男たちは、どこかに無邪気さを秘め、多少の可愛げ、何らかの矜持を持つ人間として、そもそもが男とは愚かな存在なのだということがマーロウに理解されているからである。

それに対して、この物語に登場する女達は、“純粋悪としての存在”として描かれる場合が少なくない。チャンドラーの女性に対する描写には一種の悪意が見える場合すらある。“純粋悪”という表現は強すぎるかもしれないが、少なくとも“理解不能な酷薄さを持つ存在”とは云えるような気がする。

結局、この物語を読んで強く感じたのは、男達の愚かな純真と女達の魅惑的な狡猾さ、という人類普遍の生態を、マーロウの極めて主観的な視点でメランコリックに描いた作品だということだ。

マーロウは女には本気で惚れない。女のために行動を起こすことはない。子供じみた男達にシンパシーを感じ、トラブルに巻き込まれようとも、その男達のために立ち上がるのだ。

単純な読者(私のような)は、いつの世もこうした物語に痺れてしまう・・・。


チャンドラーを読んだことのない方、この機会にゼヒっ! お薦めです。


新訳第1弾 『ロング・グッドバイ』 に関する記事はこちら。