スキのある文章・・・
最近、わりあい続けて梨木香歩さんの本を読んだ。
今まで梨木さんが描く様な物語は読んでこなかったが、こういうのを時折読むのはイイ。
何といってもすぐに読めるのがイイ。ページも薄いし、文章も簡単だから気楽に読める。
気楽に読めるが、後に何も残らないわけではない。(別に何かが残るのがイイというものでもないけど・・・)
ほんの少し、何かがホッコリと自分の感情に積み重なり、気持ちの隙間を埋めてくれる・・・ような気がする。
文章と文章の間、語句と語句との間にある隙間。隙。スキ。 よく、「行間を詠む(読む)」などと云われる、あの“行間”に相当するものだ(チョットちがうか?)。
“スキ”の開け方によって、あるいは“スキ”の向こうに見え隠れするモノによって、その文章の印象は異なる。文章どころか、物語全体の構成や雰囲気さえも左右する場合だってある。
梨木香歩さんは、“スキ”の取り方、隙間の微妙な開け方、隙の向こう側に垣間見せるぼやけた風景や心象を描くのが上手な作家さんだな、という気がしている。
読者の暮らしてきた生活環境や重ねてきた経験、それぞれに培われてきた感性によって、梨木さんが開けた“スキ”に何を観るか、あるいは“スキ”に感じるニュアンスが、捉える“スキ”の大きさが様々に変わるのである。
同じ作品を読んでも読み手によって作品の評価が違ってくるのは、その“スキ”の捉え方や感じ方が異なるからなのだと思う。
科学啓蒙書などには、あまりスキがあっては困る。科学啓蒙書などは“スキの無い論理展開”や、その論理から帰結される“新たな事実を知る”という行為を楽しむものだからである。
したがって、科学系の本でスキだらけのものはもっての外だ。一つの文章が、文節が、単語が、読み手によって如何様にも捉えられてしまうようでは科学書の体を成さない。ポピュラー・サイエンスなどでは読者の興味を引くために、多少の曖昧さを残す余地はあるかもしれない・・・。しかし、論文などでは曖昧さやスキは許されない。科学論文は一つの文章が一義的に読まれ、理解されなければならない。
ちょっと話が脇道に逸れた・・・。
「読者には誤読の自由がある!」
このひと言は、ブログ 『仮想本棚&電脳日記』 の幸三郎さん の名言である。
幸三郎さんがおっしゃるように、小説の楽しみの一つに誤読(の自由)がある・・・。この誤読をするにも、作品中の文章などに“スキ”が無くてはならない。
小説において、まったく隙のない文章というのは味気がなく、つまらないものになってしまう(かもしれない)。小説・物語を読み、その解釈や受け取り方が他人と異なる。そして、それを許容する(だから、このようなブログの存在も成り立つ?)。
人気作家である梨木さんであるから、彼女の作品に対する感想や評論記事はあちこちのブログにみることができる。梨木作品について書かれた記事には、似たような共通した感想と、読者によって異なる感想とが併在する。共通した感想を形成するものは、この国のトラディショナルな部分やこの国に生まれ育った人に根差した情緒に深く関わった部分であり、異なる部分は、多様化した生活環境や価値観によるヒト(登場人物たち)の意識の部分に関わるものだと思える。
『からくりからくさ』、『りかさん』、『家守綺譚』にみられる自然とか季節の描写や、動植物の超自然的な振る舞いに対しては、懐かしさや柔らかさが感じられる。大抵の読者はそれらを受け入れ、概して良い印象を受けている・・・・・。
一方、登場人物たちの言動に対する感想は読者によって異なる。女性キャラクターに対し、その女性性が強すぎると感じる方も居られたり、反面では、自律・自立した精神に感じ入ったり・・・・・、様々だ。
それもこれも、登場人物たちに設けられた“スキ”の見え方によって、読者それぞれに受け取られるキャラクターの性格が変わるからなのだろう。
やはり、しっかりと確立されたキャラクターにあって、それでもある瞬間にヒトとしての“スキ”を魅せる・・・、そういう登場人物たちによって展開される物語が良い物語なのだ。 梨木本であろうと、海外ミステリーであろうと・・・・・。
【これまでに読んだ梨木香歩作品】