精神状態の供述 | 司法試験ブログ・予備試験ブログ|工藤北斗の業務日誌

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資格試験予備校アガルートアカデミーで司法試験・予備試験の講師をしている工藤北斗のブログです。司法試験・予備試験・法科大学院入試に関する情報を発信しています。時々弁理士試験・行政書士試験についても書いています。

伝聞証拠に関するものです。


精神状態の供述については非伝聞説が通説とされ、その理由は精神状態の供述には「知覚・記憶」の過程が無く、誤りが混入する恐れが低いから、という点が指摘されています。確かに「表現」については誤りが混入する恐れがあるのですが、その点は表現の真摯性を厳格に確認すれば足りると説明されます。


しかし、伝聞・非伝聞の区別は「要証事実との関係で相対的に決まる」とされ、供述内容の真実性が問題とならない場合は非伝聞であるとされています。


では、精神状態の供述の場合はなぜこの説明を使わないのでしょうか。


この点に関してはあまりはっきりと書かれた本が無いのですが、私は以下のように解釈しています。


まず、第一に、精神状態の供述の場合には「供述内容の存在自体」が問題となるのか、「供述内容の真実性」が問題となるのか、判然としません。たとえば「あの人好かんわ」という被害者の供述がある場合には、その供述内容の存在自体で被害者の精神状態を推認できるとも思えるし、一方で本当に「あの人が好かん」のかが問題となるとも思えます。


この点に関しては、一般に供述内容の真実性は問題となるものの、上記のような伝聞法則の趣旨が当てはまらないから、伝聞証拠には該当しないと説明されていますが、イマイチ納得のいく説明ではありません。


私が思うに、おそらく、次の第二の理由が決定的なのでしょう。


すなわち、供述内容自体の真実性ではなく、そのような精神状態に至った理由、そのような精神状態に至らしめた原因となった事実(A)の真実性が、多かれ少なかれ問題となってしまう。


つまり、「あの人好かんわ」というからには、「あの人を好かない」理由が何かある。そして、精神状態そのものが要証事実であったとしてもその点は払拭できない。


たとえば、「私は神である」という供述から精神異常を推認する場合、そのような精神状態に至った理由(A)は問題とならない。問題とする意味が無い。これに対して、精神状態が要証事実であったとしても、どうしてもそのような精神状態に至った理由(A)はその立証過程で問題となってしまう。


そこで、「私は神である」という供述から精神異常を推認する場合には、ダイレクトに要証事実との関係で真実性が問題とならないから非伝聞であると説明できるのに、精神状態の供述の場合には、「要証事実との関係で真実性が問題とならないから」という理由ではなく、「『知覚・記憶』の過程が無く、誤りが混入する恐れが低いから」という理由が持ち出されるのでしょう。


そして、実はそのような精神状態に至った理由(A)の真実性が顕在化してしまうこともあります。これが、有名な最判昭和30.12.9です。


この判例は、被告人が一貫して犯行を否認し、犯人との同一性が争われた強姦致死事件であって、要証事実を「被告人を嫌悪していたという被害者の精神状態」と見る余地は無く、「犯行の動機(≒被告人が被害者に何かいやらしいことをしたのか)」が要証事実となるわけです。(正確には、「被告人が被害者に何かいやらしいことをした」という事実から、「被告人が被害者と情を通じたい」という動機を推認することになるのでしょうから、要証事実=証明対象事実と解すれば、「被告人が被害者に何かいやらしいことをしたのか」という点が要証事実になると思われます)。


一方で、被告人が姦淫の事実を認めているが、和姦であったと主張している場合には、正に要証事実は「被告人を嫌悪していたという被害者の精神状態」と把握されることになり、被害者がそのような精神状態に至った理由(A)は陰に隠れてしまいます。しかし、依然としてそのような精神状態に至った理由(A)は払拭できないので、「要証事実との関係で真実性が問題とならないから」という理由ではなく、「『知覚・記憶』の過程が無く、誤りが混入する恐れが低いから」という理由が持ち出される。



ちなみに、この説明を答案で書くのは止めてください。あくまでも一予備校講師の私見ですので。

また、この点に関してご質問を頂いても、裏がほとんど無い以上、ご回答できませんのでご了承ください。内容も推敲していませんし、校正もしていませんので、私の独り言だとご理解いただければと思います。