共同体と価値観、つまりはマンガ・アニメ・ゲームの話 | 名無しの唄

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鼻歌と裏声の中間ぐらいの本気

人間は共同体的な生き物だ。
特に、恥と外聞の精神を持つ日本人においてはそれが強烈である。
つまり、共同体が広域の世界において果たす役割と、共同体内において構成員が評価される基準とが、密接に結びついているということだ。

例えば、村に米での納税が課されていたとする。
その時村の中においては、米農業を良くする人間を一人前として認識する価値観が形成される。
一個の共同体が共同体単位で求められる要素と、それを果たすべく働く構成員との関係性は相互補完的であり、そこに価値基準が生まれるのだ。
あるいは連帯責任という感覚も関係しているのだろう。共同体が全体として優秀に見られるための努力が、個々の構成員の在り様に還元され期待されていく。

時に、昭和後半期、高度経済成長期の日本である。
バブルに至るその社会において、「男は車を持っていなければならない」という価値観が生まれた。
短期的な動機は様々あげられるだろうが、そこにはやはり、重化学工業の輸出でもって世界経済に地位を得た日本、という歴史が無関係ではない。
世界という範囲において日本という共同体が、車をもって高く評価されていたことと、日本人が日本人に対して車の所持を期待することは、連動していたのだ。

翻って現在、世界において「日本と言えば」という産業は、今や自動車のみではない。
世界で多くの人間が、特に声高な大衆が日本に期待しているのは、Doragon BallでありHayao MiyazakiでありNintendoだ。
マンガ・アニメ・ゲームはもはや、世界における日本の経済的実力なのだ。
新自由主義と評されることもある現政権が、クール・ジャパンに注目するということは、やはりそれだけの利益的見込みが存在しているということなのだ。

かつて、アニメは子供の見るものだ、マンガは大人の読むものではない、ゲームは時間の浪費に過ぎない、という感覚があった。
その価値観があった故に今のところは潜在的であるが、しかしながら、共同体の価値形成は確かに進んでいく。
今に、「日本の社会人として、マンガの一つも揃えていないというのは、未熟である」「一人前の日本人ならアニメを定期に見るべきだ」「ゲームこそ大人の嗜みである」という時代が、間違いなく来る。
若者は覚悟して準備していくべきである。