■特別版■(「幹部公務員法」等の議員立法)いまなぜ議員立法なのか | 中川秀直オフィシャルブログ「志士の目」by Ameba

■特別版■(「幹部公務員法」等の議員立法)いまなぜ議員立法なのか

現在、同志とともに進めようとしている「幹部公務員法」等の議員立法は、110年ぶりの官僚制度大改革をめざすものである。

私は、官僚の大多数が若き日には、国益のために奉仕しようとの志をもって霞が関に来たものと信じている。その青雲の志を遂げてもらおうというのが、この議員立法である。官僚が志を捨てていないとすれば、必ずや賛同していただけるものと信じている。

志の高い利他的行動をとる公僕が「正当な報酬」を得ることに、国民が反対するわけがない。問題となっているのは、民間と異なる特権を守ろうとしつつ、他方で、「官民を問わず、人間の社会から無駄がまったく無くなることは考えにくい」などという論理で、税金を扱っていることや公僕としての使命を忘れて民間と同一で論ずる姿勢なのである。

「幹部公務員法」等の議員立法は、官僚への不信感が7割に達するに至った今日において、官僚が公僕としての信頼と名誉を回復するための唯一の手段であると考える。

さて、私が110年ぶりの大改革だといったときに、2つの反応があった。

一つは、「この際、省庁別設置法の廃止まで踏み込もう」という若手議員の強い指摘である。これは日本の政治行政に革命的な影響を及ぼすだろう。他国を見れば当然の姿になるだけのことではあるが、日本の政治行政の宿癖の一つである「縦割り行政」打破には大きな影響力を持つことになるだろう。

もう一つは、三谷太一郎東大名誉教授の本を読んでみてはどうか、という知人の勧めである。

そこで、『増補 日本政党政治の形成』(東京大学出版会、1995年)を読んだ。

ここで改めて学んだことは、戦前の明治憲法下では、その外見的な集権主義的構成にもかかわらず、明治憲法が集権化の制度的主体を欠いており、明治憲法体制がそれを支える分権的な国家諸機関及びそれに依拠する政治諸勢力の間の多元的均衡を担う「非制度的主体」が必要だった、ということである。

そして、体制の集権化要因としての役割を担った「非制度的主体」こそが、「藩閥」だったのである。

しかし、藩閥は全能ではなく、全国家機関を縦断するその勢力も、反藩閥勢力の拠点である衆議院には及ばなかった。

政党の側からみると、明治憲法の分権主義の下では、衆議院における多数はそれだけでは集権化要因とはなりえない。

そこから、明治憲法下での「藩閥と政党の政治史」が繰り広げられる。

1899年の山県有朋内閣における、文官任用令改正、文官分限制定、文官懲戒令改正により、直前の「隈板内閣」にみられた政党員の就官増大に歯止めをかけようとした。官僚の身分保障を確立して時の政府により簡単に罷免できない今日の制度の起源はここにある。

110年前に政党勢力の官僚機構内部への浸透を防ぐ措置がとられたのである。

この制度のもと、藩閥に代わり高等試験を経た文官による官僚閥が形成され、原敬のもとで「官僚の政治家転身」が進む。このように、官僚が政党に浸透してくることで、「藩閥」に代わって「官僚閥」が非制度的主体となったといえるかもしれない。

そして、官僚を人材供給源としつつ、戦前の政友会は鉄道建設により、戦後の自民党は道路建設により、国民の支持を得た。三谷先生によれば、政友会の手で、地域の名望家秩序が崩されていったとのことだ。

自民党がこのモデルを完成させ、小泉改革により終止符を打ったのだ。

三谷太一郎先生は別の本(『日本の近現代史述講 歴史をつくるもの・上』中央公論新社、2006年)の中で、アメリカ合衆国の場合、権力分立制をとる政治体制の求心力を何に求めるのかという問題に直面し、非制度的な主体として、二つの全国的政党と結びつけた、と指摘している。

いま、官主導か政治主導かで問われているのは、権力分立体制をとる政治体制の求心力としての非制度的な主体は、「官僚閥」(私がいうところのステルス複合体)か、「政党」か、ということでもある。

その意味で、110年ぶりの官僚制度大改革なのである。

霞が関の反応は二分されるはずだ。青雲の志を失っていないみなさんからは必ず支持されるはずだ。

内閣の政策を企画立案するならば、内閣と一体化すべきである。内閣と一体化もしない、政策の企画立案はする、結果責任はとらない、そんな特権はもう許されない。

特権意識とは、20代前半に受けた公務員試験にパスしたことで終身の特権を得たという意識であり、キャリア組ならば民間の社長以上の生涯年俸を受けるのは当然で、一切のリスクを避けて、政策の企画立案はするがその結果責任はとらないのは当然、という意識であり、入省年次を守ることこそが「公正な人事」であるという意識である。

この特権意識は、公務員のスト権の制約の代償措置としての身分保障と人事院勧告制度によってガードされてきている。

このガードを崩そうとする政治家の動きを、「反麻生」「経済産業省のポスト増大要求の傀儡」との偽りのレッテルをはり、問題の矮小化を図り、政治家の分断を図り、改革の動きを止めようとする勢力が必ず現れるだろう。

残念ながら、政治家はこの手の分断工作に、弱い。誰の指示を受けているのか知らないが、最高学府を出て、このような謀略情報で問題を矮小化することに汗を流している人がいるとすれば、哀れというほかはない。

しかし、どんなに問題の矮小化し抵抗しようとも、歴史の趨勢に逆らうことはできないだろう。

100年に一度の危機には、100年に一度の景気対策と、100年に一度の官僚制度大改革が不可欠なのだ。

霞が関の諸君も、若き日に郷土の期待を受けて上京した日を思い出し、自分の子供たち、孫たちに恥じない行動をして頂きたいと切に願う。もしも、そうした志に基づく行動が組織の論理の呪縛でできないということであれば、そのような組織の論理の呪縛から、一刻も早く、彼らを解放しなければならない。

それが議員立法である。(4月2日記)