アウシュビッツ-1 から3kmほど離れたところにアウシュビッツ-2 / ビルケナウ収容所は立地している。1941年にソ連軍捕虜収容所として開設されたビルケナウは40km四方を超える広大な敷地にアウシュビッツ−1より明らかに粗末な平屋建煉瓦造(写真下)の小屋と木造バラックが並ぶ。ビルケナウ近郊に住んでいたポーランド人を追い出して、彼らの家から煉瓦を再利用し収容所を造り始めたが、建設途中で没収煉瓦が尽きてしまい、木造に変更したという。冬には零下20℃を下回るポーランドの地で、断熱もなく、小さい暖炉も数個、隙間風が吹く収容施設の生活は凄惨だったらしい。1944年には9万人を収容したビルケナウは女性が多かったが、子供用の建物もあったとか。

 

ビルケナウ配置図          女性用収容所

 

 アウシュビッツに関する映画で何度か見かけた線路と道路が通過する進入門(写真下)はSS将校の監視塔も兼ねた。門から先の線路ランペにはヨーロッパ中から収容者を集めた家畜運搬車両の見本(写真下)が展示してあった。そして、そこはアウシュビッツ−1の写真にあったナチス医師が就労可能者と不可能者を選別した場所。就労不可能者はそのまま数百メートル離れた場所にあるガス室に直行し、殺害された。収容所内には4ヶ所のガス室があったが、いずれも1945年1月ソ連軍が来る前に親衛隊によって破壊され、今は廃墟として残るのみ。焼却炉は近代的で効率良い装置を備え、死体は灰になるまで焼かれたらしい。廃墟の近くには各23言語で書かれた犠牲者追悼の碑が並んでいた。

 

ビルケナウ進入門                新入門の先には家畜用運搬車両

 

 ビルケナウは敷地が広大で中に入れた建物は確か2棟だけだった。ただ、そのうちの1棟は子供用で壁には彼らが知らない学校やら、普通の生活が描かれている。ガイドさんによれば「収容所で育った子供たちにはさっぱり意味が分からなかった筈」とのこと。暖房も効かない長さ150センチほどの3段ベットにそれぞれ6人詰め込まれての生活(写真下)…あまりに悲惨で映画では描ききれていない現実が迫ってきた。例えば、イタリア映画の名作『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997)では親子が同じ棟に居たけれど、それは映画というファンタジーだからできること。『縞模様のパジャマの少年』(2008)はフィクションで、恐らくモデルはアウシュビッツ-1の隣に住んでいた所長ルドルフ・ヘスの子供だろうけれど、監視の目が届いていなかった点から全長40数キロのビルケナウでなければ辻褄は合わない。とはいえ強制収容所に関する映画は現実にある程度即していることを求められるとか。

 

 ビルケナウでは長距離歩いたので、最終的に2万歩に達していた。最後に立ち寄った売店でアウシュビッツに来るヨーロッパ人の中では本の種類から推測するにイタリア人が多いらしいことを知った。それに対してフランス語の本は少ない。全世界共通語として英語はもちろん多いけれど、ドイツ語が次という感じ。イタリア人の友人は「ヨーロピアンはナチス収容所に入れられた人々に対し、大変な負い目がある。人権先進国を自認していたそのど真ん中でユダヤ人の大量虐殺をしてしまったから」と言う。長年ヒューマニティーを研究して人権を高めてきた筈のヨーロッパ哲学はなんだったのか、と虚無感が伴う。この負い目が、イスラエルに対しヨーロッパ諸国が何も言えない現況につながっている。一方、アメリカは第二次世界大戦中ナチスに追われたユダヤ人が移住してきた結果、学術的に大きく飛躍した実態がある。建築で言えば、バウハウスの面々がドイツを追われ、イリノイ工科大学などで教鞭を取った結果、アメリカの建築教育が著しく向上した過去がある。また、確か1970年代の岩波新書で読んだが、ユダヤ人による研究で戦後アメリカのノーベル賞受賞者数も急速に伸びたとか(実家にあった本なので著者等は不明)。全てここから始まっていた「元凶」という意味でもアウシュビッツ-ビルケナウのツアーは一生忘れられないと思う。理不尽にも連行され殺された収容者たちと比べれば、自分の日常の不満や文句などは瑣末なことでどうでも良いのだと気付いたし…幸せとは何か、プリーモ・レーヴィの『If this is a man /これが人間か』を読んで考えよう。

 

 

子供用収容所        アウシュビッツ博物館では宿泊施設を建設中

アウシュビッツ博物館正門