アイデンティティー権・ネット上でなりすましされない権利に言及した裁判例について | なか2656のブログ

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1.「アイデンティティー権」に言及した判決が現れる
6月11日のネットの複数のニュースによると、ネット上において他人に「なりすましされない権利」を「アイデンティティー権」と呼ぶつぎのような興味深い判決(大阪地裁平成28年2月8日)が出されたとのことです。

『インターネットのSNS(会員制交流サイト)で自分に成り済ました人物を特定するため、中部地方の四十代男性がプロバイダーに情報開示を求めた訴訟の判決で、大阪地裁が、他人に成り済まされない権利を「アイデンティティー権」として認めたことが分かった。』

『原告代理人の中沢佑一弁護士によると、こうした権利を認めた司法判断は初。判決は二月八日付で、被害に遭った期間が短かったことなどを理由に、請求自体は棄却。男性は控訴している。』

『佐藤哲治裁判長は、原告の主張に沿う形で、アイデンティティー権を、他人との関係で人格の同一性を持ち続ける権利だと定義。成り済ました人物の発言が、本人の発言のように他人から受け止められてしまい、強い精神的苦痛を受けた場合は「名誉やプライバシー権とは別に、アイデンティティー権の侵害が問題となりうる」とした。』
(「成り済まされない権利認定 大阪地裁、SNSで初の司法判断」東京新聞2016年6月11日付)

・成り済まされない権利認定 大阪地裁、SNSで初の司法判断|東京新聞



2.判決の概要
この裁判の原告側の代理人の中澤佑一弁護士が、法律事務所のウェブサイトで判決の概要を掲載しておられるので、その一部を引用させていただきます。

『大阪地裁判決では、まず、問題の投稿およびアカウントが”なりすまし”に当たるか否かを検討し、これを”なりすまし”であると認定したうえ、順次原告が主張する各権利侵害の有無を検討しています。そして、名誉権・プライバシー権・肖像権の侵害を否定し、最後にアイデンティティ権について、そもそも一般論としてそのような権利があるのかというレベルから検討をしました。そして

「確かに、他者との関係において人格的同一性を保持することは人格的生存に不可欠である。名誉毀損、プライバシー権侵害および肖像権侵害に当たらない類型のなりすまし行為が行われた場合であっても、例えば、なりすまし行為によって本人以外の別人格が構築され、そのような別人格の言動が本人の言動であると他者に受け止められるほどに通用性を持つことにより、なりすまされた者が平穏な日常生活を送ることが困難となるほどに精神的苦痛を受けたような場合には、名誉やプライバシー権とは別に、「他者との関係において人格的同一性を保持する利益」という意味でのアイデンティティ権の侵害が問題となりうると解される。」

と述べ、原告が主張するアイデンティティ権の存在自体は肯定し、なりすまし事案における新たな判断枠組を採用し得ることを明らかにしました。』

『しかし(略)「損害賠償の対象となりうるような個人の人格的同一性を侵害するなりすまし行為が行われたとは認めることはできない。」として権利侵害を否定しています。』
(「アイデンティティー権」弁護士法人戸田総合法律事務所サイトより)


・アイデンティティー権|弁護士法人戸田総合法律事務所サイト

3.検討
(1)プロバイダ責任制限法による発信者情報の開示請求
本件の原告の男性は、うえの記事や判旨によると、SNSにおける、なりすまし被害を受けたため、名誉棄損、プライバシー権侵害、肖像権侵害、そして今回問題となったアイデンティティー権の各種の侵害による損害賠償請求をするために、プロバイダになりすましを行った人物(発信者)の情報の開示を求めて訴訟提起をしたもののようです。

プロバイダ責任制限法4条は、発信者情報の開示請求が認められる要件として、①権利侵害の明白性(同条1項1号)②請求の正当性(同条1項2号)の2つを規定しています。

一般的に損害賠償の請求のためということであれば、②の請求の正当性は満たすのでほとんど問題になりません。

一方、①の権利侵害の明白性は、開示請求を行っている者の権利が侵害されていることが明らかが悩ましい問題であるので、通常、裁判で争われます。

そして、今回、裁判所は名誉棄損、プライバシー権侵害などは本件では成立していないとして、今回のアイデンティティー権の検討を行ったものです。

(2)アイデンティティー権
中澤弁護士のサイトに掲載された判旨によると、裁判所はアイデンティティー権を「他者との関係において人格的同一性を保持する利益」と述べています。

そして判決は、「他者との関係において人格的同一性を保持することは人格的生存に不可欠」であり、

「例えば、なりすまし行為によって本人以外の別人格が構築され、そのような別人格の言動が本人の言動であると他者に受け止められるほどに通用性を持つことにより、なりすまされた者が平穏な日常生活を送ることが困難となるほどに精神的苦痛を受けたような場合には、名誉やプライバシー権とは別に、「他者との関係において人格的同一性を保持する利益」という意味でのアイデンティティ権の侵害が問題となりうる」

としています。

(3)「新しい人権」としてのアイデンティティ権を考える
ところで裁判所は、本件の事案における原告の男性がなりすまし被害にあった期間は約1か月であり、その被害は「平穏な日常生活を送ることが困難となるほどに精神的苦痛を受けたような場合」に該当しないとして、結論として原告側の請求を棄却しています。

また、新聞記事を読むと、裁判所は、この権利は憲法13条が定める幸福追求権や人格権から導かれるとする一方、「明確な共通認識が形成されているとは言い難い」とも指摘し、「どのような場合に損害賠償の対象となるようななりすまし行為が行われたかを判断するのは容易ではなく、判断は慎重であるべきだ」とも述べたとのことです。

つまり裁判所自身が、「明確な共通認識が形成されているとは言い難い」と述べ、この新しい人権・権利が“新しすぎる権利”であることを告白しています。

このように判決文などをみてゆくと、この判決が「アイデンティティー権」という言葉を使ったのは、原告側弁護士の主張があったことをも受けて、言ってみれば裁判の両当事者にわかりやすい判決文を書く程度の意味合いで暫定的に使ったのではと思いました。(それを新聞紙などが面白い判決がでたと、つい飛びついてしまったのかなと思いました。)

また、そもそもこの判決では、アイデンティティー権侵害を認めていません。

さらに、本判決は、「なりすまされた者が平穏な日常生活を送ることが困難となるほどに精神的苦痛を受けたような場合に」、アイデンティティー権の侵害が認められるとしています。

しかし、「平穏な日常生活を送ることが困難となるほどに精神的苦痛を受け」るような重大なトラブルの場面は、従来からのオーソドックスな名誉棄損プライバシー権侵害が認められるとして、プロバイダ責任制限法4条1項1号の要件は充足されると裁判所に判断される可能性が高いと思われます。

(情報法の岡村久道先生も6月11日のツイッターの投稿で、名誉棄損で処理すべき事案でないかとのご見解を述べておられます。)

あるいは、憲法13条から導き出される自己決定権(個人が一定の私的事項につき外部による干渉を受けず自ら決定する権利)の侵害であると主張することもできるかもしれません。

そういった意味でも、あえて「アイデンティティー権」という新たな人権を創設する必要性は低いように思われます。

幸福追求権を規定する憲法13条は、例えるならばドラえもんのポケットのように「新しい人権」を導き出すことができます。しかし、あまりにもたくさんの人権を手軽に導き出すことは、「人権のインフレ化」を招き、人権をあいまいなものにしてしまうと批判されることがあります。

名誉権、プライバシー権など、現行ですでに存在する権利で事案を法的に処理することができるのであれば、できるだけ「新しい人権」を新設しないほうが望ましいと思われます。

■参考文献
・TMI総合法律事務所『IT・インターネットの法律相談』29頁、82頁
・芦部信喜『憲法 第6版』119頁

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憲法 第六版





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