言いたい放題に言っていた二十代や三十代にに比べると、今は随分無口になってしまった。私が、私の心が、稚拙だからに違いない。あるいは老いさらばえてしまったのか。


言いたいことは日々たくさんある。喜びも悲しみも。でも、私の喜びは、誰かには叶わなかった望みや辛い日々を思い出すきっかけになりかねないし、私の悲しみをぶちまけても誰の徳にもならない。けれど、どちらもたくさん抱えている。


そういう想いたちは、要するにSNSなどで発信するべきものではないということなのだろう、私にとっては。


私が全世界に、未来の人々にまで発信したところで、それに尾ひれや背びれが付き、めぐりめぐって戻ってくる頃には、どんな形になってしまうかわからない。その恐ろしさに、私はどんどん無口になってしまった。あるいは、言葉を選んでいるうちにすっかり疲弊してしまい、無口になってしまった。いや、完全な無口になれるならばまだいいのかもしれない。自分以外の何かに繋がっていたくて、うすっぺらなおしゃべりを繰り返してしまう。平成とはそんな風に段々と心が窮屈になっていった時代だった、私にとっては。


…なんて、平成を総括したりしたかったわけではないのだけれど、このタイミングで終止符を打たれることに、どこかホッとする気持ちもある。時代がガラリと変わるなんてことがないのは分かっているけれど、冬至を境に太陽の光の量が増えていくようなイメージで、何かが変わっていくことを期待してしまう。


私の中で出口を求めている言葉たちを、どこで、誰に向かって、どんな形で送り出していくのか。どこを閉ざして、どこに開かれるべきか。

次の時代はその模索から始まる。

だから当然、その答えはまだ分からない。


でも、やっぱり誰かの心に繋がっていきたい。そして、より幸せな気持ちになりたい。そのために、誰かの幸せの役に立ちたい。


昨日はクローゼットの衣替えに始まり、なんとなく普段は触らないところを重点的に整理整頓した。そのうち大晦日のような気分になってきた。古い仕事の資料をまとめて捨てたり、使わないカード類を始末したり、逆にしばらく使っていなかったコーヒーマシーンを引っ張り出してみたり。時間をかけた割に派手な変化がなくて「なんだかなぁ」という気持ちもあるけれど、少しずつ、引き出しの中や本棚の隅や小さな窓の前に空間が生まれた。余白が清々しい。余白が、何かを待っている。そんな風に見えた。

そして、こんなことを考え始めたというわけだ。

多分、最終的には前向きだ(笑。

それが出発点。