8月の末、留守電をまとめて確認した時のこと、亡き父の弟である叔父上が意識不明の重体で入院したという報せが残されていた。
「まとめて確認する」というのは、同居している介護中の母親が以前に古物商から貴金属を不本意な方法で “下取り” されてしまった嫌な経験があるため、普段から「絶対に電話に出るな。」と言い含めているために、然るべき報せを下さる方々にはメッセージがあるはずなので、それを私が1両日中にまとめて確認しているわけで、そういう表現になった。
大概が無言の場合が多いために、多忙な場合はつい確認しそびれることがある。叔父上の報せは3日後になって確認してしまい、こちらから叔母へ電話してしまった。
話によると、高校野球の準々決勝を観て、夕食前にトイレに入ったきりご飯が出来ても出て来ず、心配になって確認しに行ったら倒れていたということだった。それ以来、意識不明のまま入院しているという。
そしてそれから1週間ほどして遂には還らぬ人となってしまい、やはり不在中に留守電に訃報が残されていた。葬儀は家族葬とするということで、通夜、葬儀には出席を遠慮し、今月中には個別にお悔やみを申し上げに伺うつもりでいる。
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叔父上との思い出と言えば、私にとっては「お父さんの生まれ変わり」なのであった。
私の父は、私が9つの時に肺癌を患って亡くなっている。
仕事熱心で健康診断を後回しにしていたため早期発見出来ず、母親には余命1年と宣告されたそうだ。それからぴったり1年の9月に亡くなった。
夏休みが明けてまだ授業も軌道にのっていなかった時期だったと思う。病院で付き添いをする母親から早朝電話で呼び出され、自宅から祖母と4つ上の兄とタクシーにのって駆け付けたが、既に父の顔には白い布が被せられていた。
その後、午後になり先に自宅に戻り父の遺体が帰ってくるのを待っていた時である。
お父さんソックリな人が喪服を着て歩いて来たのである。叔父上であった。
叔父上は当時金沢に住んでいたか? 滅多にお目に掛かる機会がなかったのであろう。とにかく幼い私の記憶の中にある叔父上は、この時が初対面に近い経験であった。
だから、叔父上がまさか、まさか、…
今朝亡くなったはずの父親が生き返って帰って来たように感じて、私はしばらく呆然としていたように覚えている。
「Jちゃん、大きくなったなぁ? もう3年生だもんなぁ? 元気だったか?」
溢れるような笑顔で僕を気遣いながら、努めて明るく接してくれるさり気ない愛情を今でも昨日のように思い出す。
それから、葬儀が終わるまで私は叔父上を時折父親のように大きく温かい存在として感じながら無意識に目で追っていて、そしてその後は四十九日、1周忌、3周忌という法事のたびにお目に掛かっていたが、次第にそういった機会もなくなっていって、私の中に父親も叔父上もだんだん日常の慌ただしさに紛わされて、その存在感が薄れると共に知らない間に大人になり長い時間があっという間に過ぎ去った感じがする。
最期にお会いしたのは、確か10年ほど前の父親の二十七回忌だったと思う。父親は6人兄弟の一番上で、叔父上が2番目、その下には叔母が4人居る。多分その全ての人々が私の目の前で集ったのは、この時が最後の機会になった気がしている。
三十三回忌は、父の兄弟5人の方々は地方にありそれぞれご高齢のため、東京にいる私と兄と2人きりで法事を行ったから。
なので、突然の叔父上の訃報に触れ、私としては二度目の父親喪失のようであり、そしてそんな “父親” に対してはとても親不孝ものであったなぁ、と、大変残念に感じている。
近頃、核家族化が進んで家族でさえ生活時間帯が重ならず、食卓を囲むことさえままならない忙しない寂しい世の中になっている。親戚ともなれば年に一度定期的に会う機会を持てていれば良い方だ。
私のように如何に遠くに住んでいるからということがあろうと、親戚でありながら年賀状の遣り取りさえないという関係は少なくないであろう。
やはり、普段から家族は勿論、親戚同士何かとお付き合いする機会を持っておかないと、こういうことがあった場合はとても寂しいことになるんだな、と、とても反省している次第である……
叔父上、御冥福を御祈り致します。
有難う御座いました。