感情労働 | 市民社会づくりの日々

感情労働

北海道はすっかり寒くなってきました。

 

この土日は行動援護従業者養成研修という研修を実施しています。

 

行動援護は主に自閉スペクトラム症の二次障害で行動に手厚い支援を必要とする方たちの外出を手助けする(居宅でも可能ですが)サービスです。

 

つい先日、釧路でお母さんを招いて事例検討をした自閉スペクトラム症の若者もかなりの行動障がいをもっていますが、お母さんから聞いた数々のエピソードとこの研修で語られている話は見事につながっていて、ちょっとびっくりしました。

 

それだけ、同じような生きづらさ(わかりづらさといってもいいのかもしれません)が共通してあるのだなぁと。

 

それがいわゆる障がい特性というものなのでしょう。

 

これまでも発達障がいの勉強会をしたことがありますし、次女も当事者なのでいろいろと聞いていますが、特性があるといっても共通点があるようで、個別性もあって、理解するのが本当に難しいだろうと思います。

 

また、行動として周囲がわかるようになるまでに本人が人知れずストレスをため込んだり、混乱を引き受けたりして、爆発してしまうと、周囲から怒られたり、押さえつけられたり、嫌がられたり、さらにつらい立場になっていくのですから、たまったものではありません。

 

困った人ではなく、困っている人たちなのだと、研修では繰り返し伝えられていましたし、講師陣がそれぞれ自らの失敗経験について本当に反省を込めて話をするのも印象的でした。

 

人と人とのコミュニケーションや関わりは愛や心を込めれば必ず通じるんだという精神論ではなく、相手にわかるやり方でお互いに理解しあわないと前提として無理だし、お互いに傷ついたり、どちらかというと弱い側が我慢を強いられてしまうのだということを私たちはまず理解する必要があるのだと思います。

 

また、今日の講義の中では「感情労働」「共感ストレス」という話題もあり、対人援助職が抱える課題や悩みについても話されていました。

 

肉体労働でもなく、知能労働でもなく、感情労働という概念らしいですが、自分としてはしばしば「感情がないんじゃないの?」と言われるほどのキャラなのに、いわゆる感情労働をしている自分って何なんだ?と不思議に思ってしまいます。

 

が、よく考えると感情労働の辛さが感情の取り扱いにあるとしたら、共感ストレスとはほぼ無縁の私が感情をあまり使うことなく、感情労働をするからこそ、向いているのかもしれないと思いました。

 

私の場合は感情労働を知的労働にしてしまうのかもしれませんが、若者たちと付き合っていても感情を使っている感覚はなく、表現に近いのではないかと思うのです。

 

共感するというより、協働だし。

 

感情を使うというより、相互の自己表現だし。

 

感情労働という概念がいまいちつかめないのですが、行動障害の人たちがものすごく一般や通常の感覚や世界とは異なるところで生きていて、その感じをもう少し理解したいと思いました。

 

明日も研修は続くので、事務局をやりながら一緒に学びたいと思います。