可能性を前提にして | 市民社会づくりの日々

可能性を前提にして

研修講師の仕事を終えて、釧路に帰ってきました。

 

久々に(本当に久々に)、夜行以外のバスに乗りましたが、いやはや長いですね~。

 

とは言いつつ、ほとんど寝ていたのですが(笑)。

 

今日の講師の仕事は札幌市内の児童発達支援事業、放課後等デイサービス事業の保護者向けの勉強会。

 

土曜日の保護者向けの勉強会に参加をする人たちは、非常に熱心でその熱心さに最初は圧倒されました。

 

しかも、夫婦で勉強会に来ている人たちも多く、新鮮でした。

 

話の内容としては、発達に遅れや偏りのある子どもたちが幼児期から成人期を見据えて、どんな配慮やつながりが必要かというもの。

 

自分としてはこれまであまり話したことのないネタです。

 

初めてのネタだからか、迎えるにあたって気持ち的に落ち着かず、資料を作っても、この話をどう伝えようか迷いがありました。

 

結局、今日、聞いている人たちを前に話しながら自分なりに模索しながら話すことになりました。

 

発達障害のお子さんの保護者の方が多いようなので、次女の小さいころの話もけっこうしました。

 

また、相談や支援の中で出会った子どもや若者たちの経験や意見から得られたものも取り入れながら、長い目で見て子どもたちにどんな環境を提供することが大切なのか、また、どんな社会資源が考えらえるかなど話をしました。

 

せっかくだから、今日話した一部を紹介しておきます。

 

長い目で考えて小さいうちから配慮したいこと

 

  好きなこと、夢中になれるものをつくるための環境づくりや応援

発達に遅れ、偏りがある、個性が強い子どもが自信をもって生活するためには好きなこと、興味のあることがあることが大切。何かでつまずいたり、迷ったりしたときにも「好きなこと(強み=ストレングス)」を手掛かりに次を考えることができる。また、好きなことを通じてできる人とのつながりや経験も成長するうえで貴重な財産になる

 

  いろいろな人との関わりをできるだけ広げる

理解してもらえる人が少なかったり、人の好き嫌いも多かったりするため人付き合いが狭くなりがち。また、少子化や近所、親戚づきあいも少なくなっているため、「いろいろな人」と出会う機会が少ないのは今の社会全体の課題。社会性を育むためには多様な人と関わり合い自分や他者を知っていくプロセスがとても重要。ただし、理解されない嫌な経験もあるため、家族など身近な理解者によるフォローアップ体制もポイント

 

  自然(動植物、海、山、川)に触れるなど五感をフル活用する遊びや経験

思考パターンが固く、狭くなりがちな発達特性がある場合には小さいころから適度に「自分の力ではどうにもならない経験」が大切。自然相手はそれが無理なくできるいい機会。直接的な人との関わりは刺激が大きすぎて苦手でも自然を介して人と協働したり理解しあったりために自然体験はいいクッションになる

 

  規則正しい生活 体を動かす

心と体は連動して成長します。よく寝て、よく食べて体力をつけ、成長とともに増していくストレスに備えることもポイント

 

  デジタル情報や遊びは最低限にする

ゲームやスマホ、インターネットなどのデジタル刺激、情報は発達特性がある子どもたちにとって強烈な誘惑やわかりやすい情報になるリスクが高い。「わかる力」が強く「つながる力」が弱いタイプは上記のような実体験が少なくデジタル情報に多く触れると都合(落ち着く)情報をうのみにして独特な世界が形成されることも(そういった思春期以降の子どもや若者たちに最近はものすごく多く出会います)。

 

  子どもが本当に嫌がることは無理をさせない

感覚過敏などの感覚、感性に強い個性があるタイプは苦手な食べ物、苦手な生活パターン、苦手な集団生活、相性の悪い人と過ごすことなど、本人が感性的に嫌がることは無理強いしても百害あって一利なし。できるだけ本人の訴えを受け入れ、理解し、それを解消する方法を常識や当たり前に縛られずに一緒に考えることが大切

 

  兄弟姉妹への気配り

発達に遅れや偏りがある子どもがいる場合、その兄弟姉妹もいろいろな悩みが生じることがあります。特別タイムを設ける、複数の大人で役割分担する、期待や押し付けを避けるなどの配慮が必要になります

 

家族だけで頑張らずに適度に無理なくサポートを活用しましょう

 

しっかりと科学的な根拠のある話ではないですが、私の経験上、発達支援に配慮が必要な子どもたちや若者の姿はもちろん、広く子どもたちが成長するために今の社会を考えたときに大事だろうと思う視点です。

 

科学的な確証はなくても、自分自身の体験や実践、実感の中で検証しながら確信していることなので、リアリティはあります。

 

与えられた2時間で1時半半ちょっと話をして、質問をいくつかもらい、無事に終えましたが、終了後に主催をした施設の方に言われた感想が面白かったです。

 

専務さんには一見、深刻な話も私がすると楽しそうに聞こえるというコメントをもらいました。

 

思わず、「あ、でも、本当に楽しいですし、深刻じゃないですから」と返しましたが、自分では「そうか、多くの人にとってこういうことは深刻な問題になるんだ」ということ。

 

障がいがあるとか、社会に出るうえでいろいろな難しさが想定されるということを話しているのですから、多くの人はネガティブにとらえて当然です。

 

また、帰り車で駅まで送ってもらいながら、「自分の経験やお子さんお話をするのって、苦しいことでもありますよね」と言われて、多くの人たちが感じたり、考えたりする感覚や価値についても実感すると同時に自分がそうではないことを再認識しました。

 

長女や次女は身近な存在でわかりやすいですが、そのほかにも支援の中で出会った生きづらさとぶつかる人たちはみんな個性的であり、いろいろな魅力があり、能力がある人たちで、周囲がそれに気づいて、環境を整えることで力を発揮できるというのが私の前提なのです。

 

現状が可哀そうとか、人よりも劣っているとか、そんなことよりも、この先に可能性があることが大切であり、その可能性を生かすも殺すも社会の在り方次第だというのが唯一の真理だと思っています。

 

つまり、その可能性に着目すればけっこう世の中は楽しくなるし、幸せになれるはずなのです。

 

でも、社会ではそういう発想になってもらえないのも現実。

 

私としてはそういう発想になってもらえないことに生きづらさとか不利益の大きな壁があると思っているのでした。

 

なかなか発想ってのは変わるもんではないですし、私みたいな発想の人が少数派でいるということが今の時代を象徴しているのでしょうね。

 

発想が少しずつ広がってほしいと願いつつ、往々にして「面白い発想ですね」「そういうふうに考えるんですか」と感心されることへの戸惑いもあり、なかなか複雑です。