自然体の生き方 | 市民社会づくりの日々

自然体の生き方

遠軽での仕事を終えて、釧路に戻ってきました。


いつもなら長く感じそうなドライブですが、若者たちや一緒に来た釧路のスタッフとしゃべったり、しりとりをしたりしながらで、けっこうあっという間に到着しました。


でも、しゃべるのに夢中になったり、しりとりのネタを考え過ぎて、道を間違えそうになったりしました(苦笑 それには関係なく、昨日は道を実際に間違ったんですけどね)。


今日の仕事は相談支援従事者研修で事例検討の事例として協力してもらう当事者の方への取材。


初めましてで、お話を聞かせてもらい、ビデオ撮影をしました。


感想は一言、「かなり、面白かった」


というのも、その当事者の方がめちゃくちゃいい人だし、自然にその人らしく生きている人だし、ものすごく人間らしいというのかな、味のある人だったからです。


同年代(ちょっと上かな?)の男性なのですが、実に多趣味だし、一般的な不自由な価値観や常識的な発想に関係なく、人生を等身大で送っている感じがしました。


「ものすごく幸せです」ということでもなく、かといって「大変だ」ということでもなく、淡々とでもその日常の中に自分のスタイルを蓄積し、地に足の着いた生き方をしている姿を垣間に「当たり前って何だろう?」とまた考えさせられました。


長屋スタイルの古い町営住宅を訪れたのですが、すぐそばに墓場があり、猫が何匹も通り、ちらほらと高齢の人影が畑仕事をしたり、あいさつを交わすその雰囲気はまるで時間がとまったような空間でした。


夜遅くまで働いたり、難しいことを考えたり、人間関係に心を砕いたり、些細な立場や肩書についてくる責任に追われたり、そんな日常が自分にとって当たり前になり、それが自分の役割だと思いながらも、それとは別の生き方をしている人を目の当たりにして、「じゃあ、どっちが幸せか?」と考えたときにそんな比較も、正解もないだろうと思うのです。


一般的な価値観や評価でいくと、障がいはあるよりないほうがいいと思われ、能力は高い方がいいと思われ、地位や名誉や肩書も高い方がすぐれているとされ、お金や仕事もないよりある方がいいと思われています。


若者たちと一緒に活動をしていても、しばしば私のことをすごいとか、うらやましいとか、言われることがありますが、本当にそうなんだろうか?と本気でいつも思います。


まぁ、こういうことを言うこと自体、「何でもできて、それなりに評価も受けて、生活に困っていない人が何、のんきなことを言っているんだ」と言われそうだということもわかっていますが、だからこそあえてこの疑問を表明しておきたいと思うのでした。


この疑問は私が学校に行っているころから抱き続けているもので、「人の価値が能力で決まる社会なんて嫌だ、そんなところで私は生きたくない」という叫びなのですが、自分が客観的に能力が高い側の人間であるからこそ、本気にされない、疑問視される叫びでした。


でも、それが重度の障がいがある長女の存在によって、その自分の叫びがきれいごとでも何でもなく、自分の中心部分から発せられることはおそらく99パーセントは証明済みです。


でも、やっぱり自分自身の当事者性という部分では「そうはいっても、あんたは違うだろう」という疑念が自分の中でも1パーセントはあるような気がして、自分の中に葛藤をもたらします。


まぁ、その葛藤をエネルギーにして生きている感じもしますから、何も邪険にするつもりもないのですが、厄介であることも確かです。


そもそも、そんなに物事を難しく考えるからだろうと突っ込まれそうだ(苦笑)。


そう考えると、今日出会った当事者の方も日常に根差した生き方で自然体だし、私自身もこんなことをあれこれ考えながら追われている生き方も自然体なのかもしれないですね。


とりあえず、今日のところはそういうことにしおこう。


明日は夜に東京に移動し、明後日から研修実施のための国の養成研修に行ってきます。