大相撲が始った。

 野球賭博問題から端を発した八百長問題で揺れる大相撲協会は、夏場所を「技量審査」の特別場所として開幕した。夏場所が「技量審査」場所担っても、人気は上々のようだ。初日は大盛り上がりと報じられ、初日の結果は、日馬富士と魁皇の大関陣の負けに横綱白鵬の快勝と、何時もの場所と同じだった。
 

 でも、やっぱり何かが違う。何と言っても違和感のある風景は監視員。監視員の目を気にしての取り組みには同情する。裸の肉体がぶつかりあう土俵はどんな展開になるか予想がつかない。立会次第では、感情的になったり、気を逸らされ力が抜けることもある。星ひとつで、天国と地獄の違いがあるといわれる大相撲で、星の貸し借りがあっても当然だろう。


 カドバン大関の七勝七敗の千秋楽がよく例に出される人道的八百長は、誰も責めもしない。それが日本的な美徳だからだ。逆に勝ってしまうと、スポーツ的には称えられても、精神的な責めを受ける。社会的な責めはなくても、自分自身が自分を責める。そんな日本精神のなくなったスポーツだけの大相撲に魅力があるかどうかは何ともいえないが、私はそんな大相撲は観たくない。


 横綱、大関と階段があるから、当然、真剣勝負だが、でも、やはり裸のぶつかり合いの土俵の上は、複雑な人間的感情が絡み合い、そして、火花を散らす。スポーツ性と人情が折り合いを受けるのは難しいだろう。勝敗が優先するスポーツ性と、文化や伝統が折り合いをつけるには、無理があるかも知れない。


 大相撲を日本の国技などの発言も控えて欲しい。もし、国技を主張するなら、法的根拠のための法整備とか、又、日本国籍の力士だけが資格を有するとか、色々規約を改めて欲しい。外国人力士が参加するなら、国技ではないと、明確にして欲しい。外国人力士参加の今までどおりなら、国技も主張しないで、国技館も名称変更が当然だと思う。


 日本相撲協会は国との関係も改めで、独自の指針を示して欲しい。外国人力士が横綱大関に君臨する国技などありえない。根元の部分を改めないでは、意味もないような気もする。外国人力士が嫌いではない。嫌いではないが日本の国技なら、日本人力士が守るべきだと、単純に思う。大相撲問題を語る時の私の結論は、何時でも、どんな形で始っても、そこに辿り着く。


 
「技量審査」場所は入場無料。
「技量審査」場所はNHKの放送もない。