高校生の日本史教科書検定で、
 沖縄戦の「集団自殺」の記述が多くの修正を求められたようだ。

 周期的にと言うか、
 何年かの周期で必ず問題になるのが、
 歴史教科書検定問題だ。

 そして、沖縄戦と南京虐殺、従軍慰安婦問題などが焦点となった。

 沖縄戦での集団自決が日本軍の命令かどうかが問題になるようだ。

 「軍が命令したかどうかは、明らかとは言えない」
 と文部科学省は言う。

 「軍の命令とはどこからでる命令のことか」
 と、長年この問題に取り組んでいる学者は言う。
 「大本営から住民を集団自決させろと文書通達が無い限り、
 軍の命令とか関与は認めないというのが政府の考えのようだ」
 と、呆れ顔の学者は、アメリカ軍の収容と同時の聞き取りされた調査は、
 「否定しえない真実である」と言う。
 「記憶も生々しいし、複数の人たちの聞き取りは、誤魔化しようがない」
 と、アメリカから出た資料に自身を示す。

 それは従軍慰安婦問題でも同じで、政府は軍の関与は認められないと言う。

 戦後60年、多くの専門家や学者が調査し、
 目撃者やはたまた死にかけた人々や、
 旧日本軍兵士やアメリカ軍兵士からの、
 調査等で明らかになった事実も、
 否定するような決定がなされている。

 これまでの多くの学者や専門家、はたまた日本政府そのもの決定を、
 軍が関与、或いは命令したかどうか明確ではないとして否定する。

 関与や命令を否定しえないが、明らかでもないと、
 曖昧さの中で歴史的事実を覆そうとしている。

 日本は美しい国である。

 しかし、国家の歴史は決して美しいものではない。
 分捕り合戦的な争いを続けて現在の国家となった。
 その国家の中で醜い権力闘争が繰り返され、現在にいたし、権力闘争は永遠に続くだろう。

 どこの国でも歴史は決して美しいものではない。

 善は善、悪は悪として正面から向き合うのが歴史である。
 多くの先人が作り上げた歴史を、
 固執的な概念で否定するのは、
 歴史の冒涜であり、
 先人達の業績も否定するものである。

 命令か、強制か、強要か、自主的か、、、
 行き着く先の結論は住民の集団自決であった。

 大江健三郎さんが「沖縄ノート」や「広島ノート」を書いたのは何年前だろうか。

 その「沖縄ノート」に集団自決を命じたように書かれたとして損害賠償と出版指し止めを求めた裁判はまだ続いている。何の意味があるか分からないが、背後に国家が後押ししての旧陸軍の守備隊長にとっては、国家の言うことが真実である。「正しい記述が喜ばしい」と96歳の元守備隊長は言うが、果たしてどう彼が検定教科書を十分理解しているかどうか疑問である。

 沖縄の老婆はすべて日本兵が沖縄にきたせいだと言った。「そんな言い逃れするよりは、本当のことを伝え法がいいさ」とも言う。つまり兵隊が来て戦争が始まったことがすべてであると。それが真実だろう。戦争がすべてだ。

 「過ぎたことの修正は不可能だ。
 戦争と言う極限下での精神状況は平和に暮らす現在の私たちには理解不可能だ。
 兵士一人ひとりに罪は無い。罪は国であり軍であり戦争であり、歴史である。
 可能なのは真実と向き合い、罪は罪として認め繰り返さないことだ。」
 と、若い学者は唇を噛み締めた。